Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

カテゴリ:趣味の世界 > カメラと写真

 2015年6月のブログの再掲したものです。

 多度津港の桟橋に係留中のフェリー「新なぎさ」は沖合の「高見島」「佐柳島」を結ぶ定期航路、普段の島の住民の生活の足です。瀬戸内の島々は「にゃんこの島」として、多くの愛猫家注目の的となっており、終末にはカメラ片手のアマチュア写真同好者が集うことになっています。自分も孫たちを連れて佐柳島を訪れたことがありました。
DSCN4027
 以下は町内に残る歴史的建築群を訪ねた時に撮影したものです。
 旧日本国有鉄道、現在はJR四国多度津工場の一部建物です。昭和40年代はじめまではこの付近では予讃線や土讃線を走る蒸気機関車の汽笛を聞けたものでした。多度津駅は両線の分岐点として、随分栄えたらしいのですが、今は閑散として、当時の面影は殆どありません。道路沿いに展示されている蒸気機関車の動輪が当時を偲ばせてくれます。
DSCN4043
 大通り交差点付近の山本医院の「洋館」は屋根、窓にアーチ様式が多用されており、また外壁は煉瓦様の色づかい、桁梁の装飾など、非常に建築的価値があるものではないでしょうか。戦前からこの地に建っていたのでしょうか?
DSCN4044
 同じく山本医院、道路を挟んで対面にある、ほぼ同じような様式規模である。一部は建造時以降に改修されたと思われる部分もあるが、圧巻である。囲みに鎮座する「銅製のヘラジカ」が何を意味するのだろうか?
DSCN4047
 同じく県道沿いに丸亀方向へ200mほどの道路沿いに「多度津町立資料館」があり、町の地理、歴史を分かりやすく展示しています。拝観は無料のようです。
DSCN4061
 この辺り一帯は武家屋敷があったとの記述があるし、県道から一歩はずれると、その雰囲気を残す佇まいを感じさせられる界隈もあります。「多度津町立資料館」はこの石標どおり、旧多度津藩士「浅見氏」邸を改修したもののようです。
DSCN4062
 武家屋敷とはこういう囲障こそが典型かも知れません。資料館内部では、写真展「たどつ今昔懐かしの町並・風景」が開催中であり、6月末まで、無料で入館できるようでした。
DSCN4063
 資料館は玄関受付から先は上履き、館内は一階、二階に分かれて、二階には研修室、資料庫もありました。
 柱時計、ランタンなど、懐かしい日用品も多数展示されていました。
DSCN4064
 National電機、ナショナル、おそらく真空管式ラジヲの最終型と思われました。美空ひばりも、笠置シヅ子もこのラジヲから流れたと思うと、歴史を感じさせられました。
DSCN4067
 右手でレバーを持ち力任せに回転させて透明な氷を削る、かき氷マシンです。どこの町角でも夏場には見かけたものでした。その後は電動モーター式に置き換わりました。
DSCN4069
 一張羅にはこのアイロンの出番があった時代がありました。実際に活躍する場面には遭遇したことはありませんが、押し入れのどこかにあったような気もします。
DSCN4071
 柱時計は1960年代末ころまでどこの家庭にも名前のとおり、柱にぶら下っていたと思います。文字盤の二つの穴はゼンマイを巻くためのものでしたね。二日に一回はこの作業番が回ってきました。ゼンマイが緩くなると、時刻を知らせる打音が情けなくなるほど、まるで生き物のように喘いでたものです。
DSCN4073
 足踏み式オルガン、幼稚園、小学校でも教室の片隅に必ずあったものでしょう。休み時間にはカバーを外して足のペダルで空気を送りながら、鍵盤をカタカタさせたなんて記憶は団塊世代の誰にもあったはずです。
DSCN4079
DSCN4076
 展示物の一コマ、山下岩吉という高見島出身の秀才がオランダ留学中に学んだという「帆」に関するノートです。凄いお方も居たものです。

●山下岩吉(1862年、幕府のオランダ派遣留学生15人のうちの一人。ライデン航海訓練学校に入り、造船にかかわった幕府軍艦「開陽丸」で帰国。のちに海軍教授所2等教授に任命された。:資料説明文より


 2015年6月のブログの再掲したものです。

 「田舎町」といえば多少語弊があるかもしれないですけど、この町は「戦災」からも逃れ、タイムスリップした戦前の面影が色濃く残る町角がここあそこに垣間見えることに気が付きました。こんな懐古趣味が自然と自分の中に潜んでいたなんてやはり、それだけ齢を重ねてからの証であるんだろうなって、でも本当に思い出させてくれて有り難いことでもあります。
 多度津町は「平成の大合併」の誘惑にも、過疎化の波にも負けず、造船の町として一時は困難な時期があったかもしれませんが、独自色を鮮明にし、瀬戸内海沿岸の造船所関連施設としては熱気が感じられるのではないでしょうか。
多度津町
 多度津港付近 東浜の町家並、建具や屋根瓦は改修が施されていますが、土蔵も残され、昔の家並のかもす雰囲気は感じられるのではないでしょうか?
DSCN4012
 同じく、東浜界隈です。
DSCN4019
 同じく東浜界隈、裏通りです。
DSCN4015
 同じく東浜界隈、玄関の御影石の門柱は3mを越えてるはずです。窓は建築当時のまま、木製の立派な両開き戸、それに装飾のある照明灯はゆとりそのものではないでしょうか。
DSCN4023
 西浜、崖下直下の旧家、七間もある単純明快な切妻二階建。半世紀ほど前にはこの付近直ぐ前は、瀬戸内の海が広がり、夏場は庶民の海水浴場としてずいぶんと人混みのあったことを覚えていますが、今では裏通り、人影もまばら。今昔の感ありありです。
DSCN4032
 西浜の旧家の前のアスファルト道路の中途半端な位置に残された「郵便ポスト」たぶん、「ここを離れたくない」という硬い意志表示のように思えました。
DSCN4036
 西浜の崖下直下の祠の隣に残された石塔「右屏風浦道」四国別格二十礼状十八番札所
の「海岸寺」を指すものですね。

DSCN4038
 西浜の迷路に沿って古い家並が続いています。
DSCN4040

 2015年6月のブログの再掲です。

 県道234号線「紫雲出山線」を仁尾から大浜へ抜ける途中、西方向、つまり燧灘側に「丸山島」とごくつまらない名前の島が見えます。この島こそが、とんでもない、異境な世界を放つ故郷の誇りであってもおかしくないものではないでしょうか?
 小豆島の土庄町東港付近、銀波浦には「前島」「大余島・中余島」の二区間500mほどを結ぶ砂州を「エンジェルロード」の甘美な名前を付し、カップルを中心にして若い観光客を呼びこんでるみたいです。
 このような「砂州」は韓国の珍島(チンド)が有名であり、演歌歌手の天童よしみの詠唱で知られていますね。潮の流れに寄り寄せ集められた砂礫が帯状に積り、浅瀬をなし、干潮時には両端が繋がり、徒歩でも渡れるという仕掛けがあるということです。
 東のエンジェルロードに対抗して、西のエンジェルロード(浦島伝説つき)なんてのはどうでしょうか?半島側から渡ると、丸山島という、こんもりした標高100mぐらいの島が屹立しているのが観えます。麓の半島側に「浦島神社」が建立されており、ますますお伽の世界に吸い取られる雰囲気だと思います。
 丸山島を大浜および燧灘方面から望むと、陸地創世かくありなんや、ウバメガシも生えぬ節理のあらわな岩石の荒肌を見せています。オーバーハングした直下には崩落した大きな火山性の岩塊が海上に姿を出し、近寄りがたい景観を呈しているのが何とも奇怪です。物好きな磯釣り愛好家はこのような岩肌に取り付いて、竿を出していることもあるようです。惜しむらくはこの景色は西側からしか望めない。むろん、エンジェルロードは条件さえそろえば誰でも挑戦できるのですけどね。
 三豊市の観光課(あるかどうかは知らないが)に請願したいものです。この西のエンジェルロードを「恋人のメッカ」に指定し、夕日に映えるお伽噺の浦島神社と併せ、売り込んではどうでしょうか?
BlogPaint
 Googleより拝借したStreetによる県道234号から望む丸山島と麓の「浦島神社」
三豊エンジェルロード
 荘内半島側砂州の付け根付近の露出した岩肌、エンジェルロードはこの図の右側、満潮時には完全に海面下となります。
DSCN4270
 丸山島、大浜側(北)にはこのような剥きだしの崩落跡が、正面の岩塊は4m四方はあるでしょうか。海面下にもさらに大きな落下したと思われる岩が透けて見える。
DSCN4278
 剥き出した岩肌の異様な姿、上部はオーバーハングしており、ウミウの営巣があるみたいです。さらに上はへばりつくようにして「ウバメガシ」が頂上まで続いています。
DSCN4282
 丸山島の西側斜面、このような大きな切れ込みが頂上付近まで見える。岩の節理状態が露出して異様な姿を見せています。地球の営みの足跡を実感できるのではないでしょうか?
DSCN4291
 長年の波の浸食で穿たれた、洞穴、バックは仁尾方面。別になんとか岩、みたいな名称はないのでしょうが、もったいないので「荘内半島絶景三選第二丸山島の斜め海食岩穴」ってのはどうでしょうかね(笑)。長すぎるって?第一と第三は別の機会に探すことを約束するとしましょうかね。
DSCN4302
 2014年10月12日撮影 県道234号線より
PA120145
 2014年10月12日撮影 崩落部分が中央に見えますね。
PA120150


 タンジュンバライ・カリムーンから引き返し5月3日、この日ドマイを離れてようやく本来の「タンジュンバライ・アサハーン」の街に向かうことになりました。ホテルからほど近いミニバスの乗場を確認していたので安心してたのでした。三輪タクシーに乗り込んで郊外の小さな個人経営みたいなバス会社の前に到着しました。
ドマイ アサハーン
 この日の行程、375km、時間は8時間半ぐらいでした。
P5030003
 ドマイのCITY HOTEL前からこの三輪タクシーに乗り込んだ。150円ぐらい。15分ぐらいでバス乗り場に着きました。
P5030004
 このバスがタンジュンバライ・アサハーンに行くらしい。お客が集まるまでしばらく待機するしかありません。
P5030007
 中央の青年が車掌で、テーブルを囲んで発車を待つ間にコピ(珈琲)を煙草を吸いながら頂くことに、ともかくも、皆さん陽気な連中でした。やはり自分の旅姿が珍しいのか、なにかと注目の的、バスの旅も最終段階、自分の中でもこうした雰囲気を楽しむ余裕が確かにあったと思います。
P5030010
 バス乗り場前で家族の見送り?に来ていたと思われるインドネシア風模様の着衣の(当たり前だろ)可愛らしい少女がいました。
P5030013
 ミニバスはおよそ一時間後に出発しました。狭いとはいえ、座席は確保されており、自分にはこうした小型のバスの方が好みでした。車内も窓外もが身近に感じられ、乗客の顔触れも何時間も共にすると次第に馴染みとなってくるからでした。前席右の初老?の男はこの後何かと自分に世話をやいてくれた、気の良い方でした。
P5030016
 休憩所にて、これは一見すると「何だ?!」となるはず、全部食べるわけではありません。好みの品だけに手を付けるとその分だけが勘定されるというインドネシアの独特作法のようでした。
P5030018
 休憩所ドライブインの植え込みに咲いてた「ハイビスカス」。
P5030023
 休憩所の隣にはガソリンスタンドが併設されていました。「PERTAMINA」はインドネシア国有で最大の石油会社とのことです。ガソリン価格は日本の7割程度だったと記憶しています。
P5030035
 何時間も窮屈な座席でワインディングロードを揺られていると、誰もが退屈風を吹かせることになるが、小生は居眠りすことなく、車窓から流れる風景を飽くことなく見続けていました。
P5030034
 出発地で触れた青年車掌はずっと立ち通し、ドアを半開きで常に道端で待っているかもしれない乗客へアピールしていました。運転手との連携には金属棒を車体の何処かを叩き「キンキン」という甲高い金属音で使い分けていました。それにしてもよく働く青年で、愛想もとても良かったです。
P5030048
 幾つもの小さな町に立ち寄りながら、
P5030071
 山を越え、里を走り、
P5030096
 ようやく、バスは停止、そして青年車掌さんから、「ここですよ~」と言われて降車しました。テレマカシ!!
P5030099
 ここでも三叉路、この緑色のバスに乗り換える、一苦労、情報がないから。確認して乗車し、タンジュンバライ・アサハーンの市内へ向かうことができました。
P5030102
 市内行きの客目当ての三輪タクシーが数台、その内の一台と交渉成立。10kmほど走り取りあえずは市内の中心部、そこでしばらく休憩しながら、この日のホテルを探すことにしました。
P5030105
 休憩していた道端を通り掛かった三輪タクシー運転手に声をかけて条件の合いそうなホテルへ向かうことになりました。すでに午後7時を過ぎて、アザーンが聞こえる時間帯でした。
アサハーン ホテル
 Hotel Malahayati←Googlemap Streetviewから。正面の白い建物が目指すホテルです。
P5030108
 ホテルはそれなり、決して贅沢は言いません。残念なことに窓の無い一階の部屋でした。でも、飛び込みなので仕方ないと常に前向きに考えるようにしてました。旅装を解いてからホテル併設のレストラン(と言えるだろうか?)でインドネシア料理を頂きました。さて、食べようとすると、インドネシア女性が登場、どうもずっと気になっていたようで、近づき同じテーブルに腰掛けると、英語で喋り始めました。一時間ほど、良くしゃべる、シンガポールで働いており、休暇で帰国しているらしかったです。詳細はほとんど忘れたけど、高学歴の若者の多くが隣国シンガポールやマレーシアなどへ職を求めて出稼ぎ同然に国外脱出しているようなのが印象的でした。
 多くの若者たちは、ネットを駆使して豊かさを求めて、移動する術を知っており、ハタマタ、ネットから取り残された中高年はその恩恵から取り残され、現状から脱出できず、格差は広がるばかりがインドネシアの実態のように思われました。
 5月4日はタンジュンバライ・アサハーンの市内観光でほとんどを歩き通しました。意外にもここまで通過した街々と比べても興味深い光景が広がっていました。それにしても、暑さは半端なく、何度も水分補給休憩をする羽目になりました。が、すべてが今でも思い出深い風景となっています。
 「スマトラ」バスの旅その6に続きその7で振り出しに戻る予定でしたが、5月5日の朝、ホテルから三輪タクシーで僅かに2kmほどのメダン行きのバス乗り場に到着したところ、すでに件のバスは到着しているではありませんか。あたふたと三輪タクシーの支払いを済ませて、荷物を降ろし、直ぐに切符売り場へ行きました。その間に三輪タクシーは出てしまいました。切符を購入してすぐに、デジカメが無いことに気付きました。明らかに三輪タクシーの座席の上に忘れていたのでした。今回のスマトラの旅の最終局面において、最大のポカをしてしまい一瞬、善意のある運転手ならホテルに届けてくれるかもと、脳裏をかすめたものの、あり得ない、そんなことを期待するのは時間の無駄と直ぐにもう無いものの諦めたのでした。という理由で予備カメラはメダンのホテルで他の荷物と一緒に預けたままなので、その7は道中は脳裏に焼き付けた、デジタル画像はないので旅日記も諦めざるを得ないのでした。
 メダンを4月19日出発、メダン着が5月5日。17日間のスマトラ(中北部)バスの旅を終えました。もう二度と行くことはないと思うと侘しいもの、でも辛さというものは微塵もなく、ただ善意のインドネシア人と心地良い風景だけが強く強く脳裏を埋めている幸せだけに浸っています。






 4月28日ホテル「TUN TEJA」前の駐車場を午前八時半ごろだったと思いますが、数名のビジネスマンや地元の家族連れを乗せてようやくミニバスが出発しました。
P4260003
 Hotel TUN TEJA前の駐車場にて ホテルの様式は典型的なネシア風です。

 この日の行程の写真がほとんどないのは気分的に乗りがなかったのか、思い出せません。僅かに車内から写した短い動画があったので道中写真は以下のようなキャプションを載せてみました。
P4280029.MOV_000008975
 車内からフロントグラス越しに撮影した動画から、二台のタンクローリーが見えていますね。走行中にはこのようなタンクローリーの車列をどれほど多く見たことでしょうか。ここスマトラは原油の一大産地だからですね。ローリーの数の多さに比べて、パイプライン=輸送管を観ることはほとんどありませんでした。
 思い出すに、車内には一見してやり手のビジネスマン風の三十代ぐらいの男性が乗り合わせていました。車内ではほとんど話すことはなかったものの、途中の休憩所で下車した折に、飯を一緒するような事態となって以降、彼の質問攻めに会うことになってしまいました。彼は案の定ではありますがスマトラ一の都会の「メダン」で事業を知り合いと共同で起こしているらしいことを語っていました。住所なども教えてくれたものの、旅の終わりの振り出しでもあるメダンに戻ってからも連絡することもありませんでした。英語も相当話すみたいで、とても小生の拙い語彙の中ではスムースな会話は成り立ちませんでした。のに、彼は何かと興味深く、商いの種を見つけようとしているのがありありでした。メアドを交換していたので、彼からは帰国後も一年近くに亘りインドネシア語でグループへのお誘いメールが定期的に送付されてきたものでした。
 次第に会話も鬱陶しくなってきたところ、彼は「ドゥリ」という町で途中下車することに、ようやく煩わしさから解放されても、どうもバスの中の雰囲気がおかしいのでした。直観的に行き先は「ドマイ」ではないということに気付きました。車掌に「ドマイ」に行くつもりであることを何度か告げるも「待て」という返事だけでした。いつでも下車できる用意をしてから走ること一時間ほど、突然「ここで降りて乗り換えしなさい」と言ったのです。三叉路で降ろされたものの、まるでどうすればいいのかわからないまま茫然とするだけでした。
Inkedペカンバル ドマイ_LI
 ペカンバルからドマイまでの行程、黄色印の三叉路で降りることに・・・。
 すると、数人の地元民がバスを待っているのが見えたので、そこまで行って、「ドマイへのバスはいつ来るのか?」と聞いたら、「付いて来なさい」とのことでした。やや小型のバスが間もなくやってきて、やれやれ、ともかく「ドマイ」にまでは行けるということで一安心しました。
 「ドマイ」の街の中心幹線道路沿いのホテル探しはバスを降りた付近に居た三輪タクシーの運転手に案内を請いました。ここからは次の街「タンジュンバライ」という名の街は北西の海岸沿いに「メダン」方向へ戻ったところにある、はずでした。ホテルの近くには高速艇の切符売り場もあり、時刻表もその日の内に確認して置いたのに大きな間違いを犯したのでした。ホテルには28日当日と29日と連泊し、ドマイの市場や港を三輪タクシーで回ったりして熱帯の風情を楽しんだのでした。そして、30日にはいよいよ帰路の最後の街になるはずのタンジュンバライへの高速艇に乗るべくホテルから三輪タクシーで1kmぐらいの埠頭まで出かけました。
P4280001
 ドマイラインの高速艇切符売り場の前にて。
 ところが、である。この高速艇の向かう方向が巡航しても何時までたっても東南方向を目指すばかりである。高速艇の行き先は「タンジュンバライ・カリムーン」というシンガポールから20kmほど南の港町だったのに気付いたのですが、時すでに遅しでした。もう、諦めるしかありません。終点まで280km七時間の船旅を楽しむしかありませんでした。
本来の行き先は「タンジュンバライ・アサハーン」という街であったのに、、、、。タンジュン単純違いというオチでした。





このページのトップヘ

いつもお読み下さりありがとうございます。異論反論あるかと思います。ぜひコメントお願いします。