2015年6月のブログの再掲したものです。
多度津港の桟橋に係留中のフェリー「新なぎさ」は沖合の「高見島」「佐柳島」を結ぶ定期航路、普段の島の住民の生活の足です。瀬戸内の島々は「にゃんこの島」として、多くの愛猫家注目の的となっており、終末にはカメラ片手のアマチュア写真同好者が集うことになっています。自分も孫たちを連れて佐柳島を訪れたことがありました。
以下は町内に残る歴史的建築群を訪ねた時に撮影したものです。
旧日本国有鉄道、現在はJR四国多度津工場の一部建物です。昭和40年代はじめまではこの付近では予讃線や土讃線を走る蒸気機関車の汽笛を聞けたものでした。多度津駅は両線の分岐点として、随分栄えたらしいのですが、今は閑散として、当時の面影は殆どありません。道路沿いに展示されている蒸気機関車の動輪が当時を偲ばせてくれます。
大通り交差点付近の山本医院の「洋館」は屋根、窓にアーチ様式が多用されており、また外壁は煉瓦様の色づかい、桁梁の装飾など、非常に建築的価値があるものではないでしょうか。戦前からこの地に建っていたのでしょうか?
同じく山本医院、道路を挟んで対面にある、ほぼ同じような様式規模である。一部は建造時以降に改修されたと思われる部分もあるが、圧巻である。囲みに鎮座する「銅製のヘラジカ」が何を意味するのだろうか?
同じく県道沿いに丸亀方向へ200mほどの道路沿いに「多度津町立資料館」があり、町の地理、歴史を分かりやすく展示しています。拝観は無料のようです。
この辺り一帯は武家屋敷があったとの記述があるし、県道から一歩はずれると、その雰囲気を残す佇まいを感じさせられる界隈もあります。「多度津町立資料館」はこの石標どおり、旧多度津藩士「浅見氏」邸を改修したもののようです。
武家屋敷とはこういう囲障こそが典型かも知れません。資料館内部では、写真展「たどつ今昔懐かしの町並・風景」が開催中であり、6月末まで、無料で入館できるようでした。
資料館は玄関受付から先は上履き、館内は一階、二階に分かれて、二階には研修室、資料庫もありました。
柱時計、ランタンなど、懐かしい日用品も多数展示されていました。
National電機、ナショナル、おそらく真空管式ラジヲの最終型と思われました。美空ひばりも、笠置シヅ子もこのラジヲから流れたと思うと、歴史を感じさせられました。
右手でレバーを持ち力任せに回転させて透明な氷を削る、かき氷マシンです。どこの町角でも夏場には見かけたものでした。その後は電動モーター式に置き換わりました。
一張羅にはこのアイロンの出番があった時代がありました。実際に活躍する場面には遭遇したことはありませんが、押し入れのどこかにあったような気もします。
柱時計は1960年代末ころまでどこの家庭にも名前のとおり、柱にぶら下っていたと思います。文字盤の二つの穴はゼンマイを巻くためのものでしたね。二日に一回はこの作業番が回ってきました。ゼンマイが緩くなると、時刻を知らせる打音が情けなくなるほど、まるで生き物のように喘いでたものです。
足踏み式オルガン、幼稚園、小学校でも教室の片隅に必ずあったものでしょう。休み時間にはカバーを外して足のペダルで空気を送りながら、鍵盤をカタカタさせたなんて記憶は団塊世代の誰にもあったはずです。
展示物の一コマ、山下岩吉という高見島出身の秀才がオランダ留学中に学んだという「帆」に関するノートです。凄いお方も居たものです。
●山下岩吉(1862年、幕府のオランダ派遣留学生15人のうちの一人。ライデン航海訓練学校に入り、造船にかかわった幕府軍艦「開陽丸」で帰国。のちに海軍教授所2等教授に任命された。:資料説明文より
多度津港の桟橋に係留中のフェリー「新なぎさ」は沖合の「高見島」「佐柳島」を結ぶ定期航路、普段の島の住民の生活の足です。瀬戸内の島々は「にゃんこの島」として、多くの愛猫家注目の的となっており、終末にはカメラ片手のアマチュア写真同好者が集うことになっています。自分も孫たちを連れて佐柳島を訪れたことがありました。
以下は町内に残る歴史的建築群を訪ねた時に撮影したものです。
旧日本国有鉄道、現在はJR四国多度津工場の一部建物です。昭和40年代はじめまではこの付近では予讃線や土讃線を走る蒸気機関車の汽笛を聞けたものでした。多度津駅は両線の分岐点として、随分栄えたらしいのですが、今は閑散として、当時の面影は殆どありません。道路沿いに展示されている蒸気機関車の動輪が当時を偲ばせてくれます。
大通り交差点付近の山本医院の「洋館」は屋根、窓にアーチ様式が多用されており、また外壁は煉瓦様の色づかい、桁梁の装飾など、非常に建築的価値があるものではないでしょうか。戦前からこの地に建っていたのでしょうか?
同じく山本医院、道路を挟んで対面にある、ほぼ同じような様式規模である。一部は建造時以降に改修されたと思われる部分もあるが、圧巻である。囲みに鎮座する「銅製のヘラジカ」が何を意味するのだろうか?
同じく県道沿いに丸亀方向へ200mほどの道路沿いに「多度津町立資料館」があり、町の地理、歴史を分かりやすく展示しています。拝観は無料のようです。
この辺り一帯は武家屋敷があったとの記述があるし、県道から一歩はずれると、その雰囲気を残す佇まいを感じさせられる界隈もあります。「多度津町立資料館」はこの石標どおり、旧多度津藩士「浅見氏」邸を改修したもののようです。
武家屋敷とはこういう囲障こそが典型かも知れません。資料館内部では、写真展「たどつ今昔懐かしの町並・風景」が開催中であり、6月末まで、無料で入館できるようでした。
資料館は玄関受付から先は上履き、館内は一階、二階に分かれて、二階には研修室、資料庫もありました。
柱時計、ランタンなど、懐かしい日用品も多数展示されていました。
National電機、ナショナル、おそらく真空管式ラジヲの最終型と思われました。美空ひばりも、笠置シヅ子もこのラジヲから流れたと思うと、歴史を感じさせられました。
右手でレバーを持ち力任せに回転させて透明な氷を削る、かき氷マシンです。どこの町角でも夏場には見かけたものでした。その後は電動モーター式に置き換わりました。
一張羅にはこのアイロンの出番があった時代がありました。実際に活躍する場面には遭遇したことはありませんが、押し入れのどこかにあったような気もします。
柱時計は1960年代末ころまでどこの家庭にも名前のとおり、柱にぶら下っていたと思います。文字盤の二つの穴はゼンマイを巻くためのものでしたね。二日に一回はこの作業番が回ってきました。ゼンマイが緩くなると、時刻を知らせる打音が情けなくなるほど、まるで生き物のように喘いでたものです。
足踏み式オルガン、幼稚園、小学校でも教室の片隅に必ずあったものでしょう。休み時間にはカバーを外して足のペダルで空気を送りながら、鍵盤をカタカタさせたなんて記憶は団塊世代の誰にもあったはずです。
展示物の一コマ、山下岩吉という高見島出身の秀才がオランダ留学中に学んだという「帆」に関するノートです。凄いお方も居たものです。
●山下岩吉(1862年、幕府のオランダ派遣留学生15人のうちの一人。ライデン航海訓練学校に入り、造船にかかわった幕府軍艦「開陽丸」で帰国。のちに海軍教授所2等教授に任命された。:資料説明文より