Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

カテゴリ:国外旅行 > 中国西域の旅

 90年代末の香港を別にして、中国本土への旅行は生涯で初めてのことであり、それだけに情報源は日本で得るものしかなく、現実にはどのような姿をしているのかは、非常に関心もあり、興味もありました。
 日本で知りえることは、今回の旅を通じて、非常に偏見のあることではないかと、それだけでも得るものが多かったと思います。まだ旅は続きますが、前半を終えての感想など書いて見ようと思います。
 旅行は点と線で結ばれた非常に領域の限られた箇所しか通らないのですが、それでも大概は知りえるのではないかと思います。中国の現実を見て一番に驚いたことは、発展の度合いが凄まじく、多くの部分で日本を超越しているのではないかと思われたことでした。大きくはインターネットのような通信網が張り巡らされ、田舎の隅々にまでそれが浸透していることでした。例えば、街中でも小さな商店、コンビニを更に小さくした、おばちゃん一人が店番しているような、でさえもレジはスキャナーで読み取り決済するという具合でした。交通機関についても、同様で、料金収受システムはほぼ電子化されており、現金が通用するにはするものの、大方の利用者はカードをかざして乗降していました。また、大気汚染に関しても交通機関の規模が大きいこともあるだろうが、単車に限ってはほぼ9割方は電池駆動であり、街中の静かさは東南アジア諸国で感じた騒音とは隔世している感がありました。公共交通機関も市内循環バスは電動もしくはハイブリッド方式であり、排気ガスをまき散らすという光景には出会ったことがありません。ただし、乗用車に限ってはいまだにガソリンもしくはディーゼル車が大半ではありますが、、、街中を走る乗用車に目をやると、多くがドイツ、日本の合弁で製造された車が半分近くはありました。欧州車、韓国車がそれに続くという形である。このようなレシプロエンジン駆動車も政府が宣言した20年代には電動車に代替させるという方針により、近い将来には車社会も大きく変貌することになりそうでした。
 このように、中国社会は古いモノクロ写真で見るような光景は完全に過去のものであり、ここ半世紀の発展ぶりに政府主導の正しさが証明されたように思われました。確かに多くの矛盾を抱え、貧富の較差は日本の比とは遠く及ばず、鄧小平書記の「豊かに成れるものから」「白いネコも黒いネコもネズミを捕るネコが良いネコ」は確実に実現されているのではないでしょうか。
 折しも「第19回共産党全国大会」が開催されていたこともあり、街中には多くのスローガンが掲げられているのが見えました。簡体の中国語で意味を解することはほとんどできませんでしたが、融和や協調、発展、平和、青年体育など多くはこの先目指すところであろうし、それだけに政府が腐心しているところかもしれないと思えました。
 一人っ子政策が最近まで実施されてたとはいえ、街中で見かける若人、青少年の多さには目を見張らせられました。少子化高齢化もやがて目前の課題とされるだろうが、しばらくは彼らの成長因子は健在なまま推移するのではないでしょうか?
 14億人にも及ぶ人口を統治することの困難さは並大抵ではないでしょうがどこにいても、不平不満分子は存在するゆえに、ここ中国では異常なほどの対策がいたる所に散見されました。つまりは、武装警官や交通警官らの取り締まり、検査が厳重になされており、交通の大きな障害とはなっているのが分かりますが、それでも、そうせざるを得ない事情があるということでしょう。単一民族の日本にいては理解し難い問題を抱えているのだと思いました。。
 中国という国は社会主義国家といえども、社会資本主義的であると言われます。とにかくこちら日本側から訪れてみると理解し難い事象が多々見受けられました。例えば、共産党時代のソ連邦などでは街中でも広告などは一切見られませんでしたが、今の中国ではネオンで飾られた絢爛な広告塔が街中に溢れているし、豪華な高層階の民間と思しき建造物も乱立していました。果たして、彼らオウナーはどうして短期間にこのような立場を得たのだろうかと不思議に思えました。日本の新幹線と覇を競っているとされる高速鉄道についても、その路線延長は比べようもないほど進展していますし、確かに事故車両を埋没させるというようなこともありましたが、それは一面にしか過ぎないように思われました。確実に追いつき追い越される、それほど、政府が主導する政策は功を奏しているのではなかろうか少なくとも見かけ上は。なにぶんにも中国国内消費市場は膨大底無しであり、彼らの生活を保障する政府は揺るぎを許されない立場にあるのは間違いなさそうです。
 日中間には多くの懸案があり、尖閣、南京事変などなど、我々の世代ですぐに解決できないものばかりです。だからと言って、彼らに対して事大であってはならないと思います。筋のなき国家に未来はないはずですから。
 中国民間レベルでは至って良好な関係が続いているのは好ましいことではあります。一部の不穏な不埒者だけを捉えて門戸を閉ざすことがあってはならないとも思います。「爆買い」は一段落し、これからは家族個人旅行が集団に変わり増加傾向にあるといわれてます。日本の地方の良さも知るいい機会となるに違いないでしょう。「温故知新」むべなるかな。
 思いつきのまま、まだまだ続くつもり。

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 中国鉄道の旅、後半部分です。
 10月26日も日没を迎える午後7時ごろ、車窓からの写真撮影はもう無理でした。列車は四人部屋、出入り口から左右に二段ベッドが振り分けられ、右側は中国のご婦人方が二人、左側が自分と後に判明するのであるが、南京市近郊から烏魯木斉辺まで写真撮影を目的に旅した紳士然とした少し年上のオジサンでした。ご婦人ふたりはそれぞれ終点の上海までベッドに横たわったままでした。
 27日の起床時には列車は西安を経て蛙阜という地方都市付近まで進んでいました。確保していた寝台は軟臥一等車特快列車でした。進行方向直ぐ前側には食堂車が連結されており、旅の間に三回ほど利用することがありました。言葉が通じず、メニューを見ても想像するしかない、それにお世辞にも美味いとは言い難く、にも拘らず料金だけは一流でした。た。一等車の乗客でも、皆さん多くは食料を持参しているらしく、時折廊下をボトルを下げてお湯を汲みに行く姿を何度か見たことで、即席麺やお茶を立てるためだったようでした。中国の旅では列車でも航空機でもサービスされる食事にはどうにも頂けないものが多く、概して不評であるのは事実では無いかと思わされました。対して車掌らはそのほとんどが女性それも働き盛りの三十歳前後ぐらいで、体躯も平均以上に頑丈なようで勤勉に見えました。停車駅に着く前には車両の前後で直立し佇まいを律しているのが見られました。下車するときには乗降口の下で客を見守っています。
 列車の軌道はもちろん広軌1430mmの幅があり、高速鉄道と共用できるというものです。烏魯木斉から上海まで新線部分も多くありその大部分は高架か盛り土となっていました。当然この部分では車速も100~150kmぐらいは出ているようで、在来線の部分とは大きな差異があるようだ。車輛は18輌と長編成であり、軟臥車は前方機関車から三両目であった。つまり、ホームでは300m以上は歩く羽目になったのでした。
 沿線の駅舎はどこも非常に立派に整備されており、街中の汚染からすると別世界のようでした。列車の運行はほぼ時間に正確であり、これもある意味期待外れだったかもしれません。道中記は昨年このブログで上梓したことがあったので参考に読んで頂ければと思います。


 2017年10月25日に中国西域の烏魯木斉南駅19時45分発、上海へ向けて4千km、45時間の鉄道の旅の26日夕刻までの車内道中記です。
 思うようなアングルでの撮影が出来なかった(言い訳がましいですが)ために動画は見るに堪えないかもしれませんレベルです。
 そのは宝鶏という西安から150kmほどの街までの記録です。寝台一等車の四人部屋の上段、予約段階で下段を指定していたはずでしたが、何故か上段に(冗談じゃない)とても硬直した自分の体力では自力で上がるのは無理、当夜は同室の皆さまの助力で何とか上がったものの、旅行カバンを広げる気力もなく、そのまま着の身着のままで眠剤服用で眠りに就きました。翌朝、僕の様子を見かねたのか下段の自分より少しだけ高齢と見える紳士が座席の交代を申し出てくれました。ありがたい、謝謝と何度も繰り返しお礼を言いました。
 彼はアマチュア写真家のようで、日本製のカメラ(NIKON)を天井下の荷物置き場に仕舞っているのが見えたので、漢字を交えてしばしの写真談義となりました。もどかしいことこの上ない、彼は翌日南京駅で下車したのですが、人の好さが背中に現れているのが見えました。
 夜行列車、ただ寝るだけになるのが惜しいです。できることなら普通列車に乗り、光のあふれる景色を弁当でも食べながら眺めたいのが本心でした。次の機会があるのかどうか、甚だ疑わしいほどの体調ではあります。
 翌朝午前7時過ぎには小雨に煙る「蚌埠市」付近を列車は走っていました。南京まで170kmぐらいの距離でした→其の2に続く
 道中記は下の動画をご視聴下さい!

 2017年10月 
 中国の起源発祥の地「中原」にいよいよ突入することになります。
 沿線は黄濁した黄河の支流を挟んで次第に色付いた灌木の林も観えるようになってきます。ただ、何処までも黄土の大地は乾燥度が強そうで、土埃や粉塵が舞っているのか遠くは霞が掛かったようにぼんやりとしたままです。ここでも日本の四季の変化に富んだ風情は見事に尽きることを知りました。
 さすがに、三十時間もの鉄道旅は飽きが来ないはずはありません。時おり停車する鄙びた駅駅、かと思えば高層ビルの林立する大都会が現れるのです。田舎の沿線でも平屋建の農家を見ることは殆ど無く、農村にも集合住宅が寄り添っているのです。そうこうしているうちに列車は長江の長い長い鉄橋を徐行するように渡り始めました。間も無く南京に到着することになります。コンパートメントの親切な初老の男性もここで下車しました。別れ際に「再会」さよならを意味する言葉で見送りました。
 ほんの触りだけの中国の旅でしたが、機会があればもっともっと見聞したいものだと思わされました。ただ政治的な理由もあるために、自由にレンタカーを運転することも出来ません。中共の政治体制が続く限りは一般外国人の観光旅行などは期待できそうにないのが実態かなと思います。

2017年10月 
 鉄道旅行なんてもう覚えてないほど昔のことなっていました。この節の海外旅行は近くて遠い国の一つ「中華人民共和国」でした。様々な外国旅行を退職後には敢行してきましたが大概はLCCとか航空機での移動が全てでしたが、今回は行きは航空機、帰路は鉄道と船舶と随分と欲張った旅程を組んでいました。
 NO VISAでの中国への入国は滞在期間が最長で15日間という制約がありました。最悪、一度国外へ出て再入国ということも視野に入れてはいました。上海に始まり凡そ十日ほど中国西域の烏魯木斉を中心に過ごしたのち、いよいよ中国鉄道の旅の始まりを烏魯木斉南駅から上海まで42時間二泊と半日の旅でワクワク感の凄いものを駅前に到着して覚えたものでした。
 中国旅行に限らずアジア圏では外人離れした容貌の日本人の僕では特段目立つ存在でもなく、割合と自然な視線を感じながら旅することができるのはうれしいことです。それがマレー半島から西へ行くほどジロジロと舐めるような視線には閉口することが度々あります。中東から更に西へ欧州やアフリカでも同じような感覚に苛まれることになります。
 中国はもちろん漢字圏の本山でもあり、最低限の標識などは理解できるのですけど、僕が中国人でないと分かると駅員でも丁寧な応対がされたことには驚かされました。というのは公共交通機関への乗降には航空機搭乗以上の荷物身体検査が二回三回と繰り返されますから、一度構外へ退出すると面倒な検査を再度せねばなりません。
 そうこうしてるうちにいよいよ待合からホームへ案内のアナウンスがあり、ゾロゾロと一斉に予約車両まで長いホームを歩き女性の車掌に予約券を提示すると乗り込み開始となります。出発時刻は19時半過ぎ、その夜は四人部屋のコンパートメントの上段に横になり、途中何度か停車するのですが、外も真っ暗でもあり、いつの間にか眠りに就いてました。翌日の昼前ぐらいに蘭州という大きな都会のホームに半時間ぐらい停車したので一時降車して付近を見学したりしました。付かず離れず、いつ列車が走り出すかわからないので弁当を買う余裕も無いままでした。続きはその20にて書こうと思います。
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