Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

カテゴリ:国外旅行 > マグレブ紀行

  以下2017年4月にモロッコ南部の辺境をドライブした時を思い出しながら綴った旅日記です。2023年9月9日の早朝に起きた南部地域の未曾有の大地震のことはもちろんのこと、当時は此の辺でそれが発生するとは想像だにしませんでした。


 宿泊したホテルで朝を迎え、朝食の前に、ホテルの内外を散策し、そのロケーションに改めて驚かされました。それはフムズギットの街の北東辺に迫った荒々しい山塊、そこから昇る微粒な砂煙にぼやりとした太陽光線がなす光景には息を飲むほどの感動がありました。ホテルの様式は素朴そのものでして、それがこの地に溶け込み、様になってる、そのような雰囲気の中で、少し遅めの朝食をミミ君と二人だけで頂いたものでした。
 小さなフムズギットの街を後にして、10kmもせずして国道12号線に入り、ザゴラを目指すことになりました。このルートは沿道にはほとんど村も町も見えず、ひたすら平坦な道をすっ飛ばすことになりました。ただ時折見える街道沿いにスイカ畑があり、収穫作業中の小型トラックが見えていたことから、付近に水源があるに違いない。水さえ確保できれば荒れた大地も豊かな大農場となること、それぐらいの可能性が秘められた土地があふれているのでした。
 正午前には見覚えのあるザゴラの街に入りました。七年前に愚息とこの街を訪れたことがありましたが、それからでも随分と洗練され整備が行き届いているのが一目で確認できました。街の中心部のカフェでお茶休憩を取りながら行き交う人々の衣装にはどこかこれまで通過した村々、町々との違いが見られました。それはザゴラ周辺の田舎町からこの地方最大の街へ買い出しや所用で来たのではないかと明らかに田舎風の出で立ちなのでした。また、肌の色も日焼けで黒いのではなく、遥か南方のマリやニジェールを故郷とするアフリカ人の血を感じさせられる民が目立ちました。この街の南への出口の交差点には「トンブクツーまで52日」というラクダを牽いた隊商の看板があることを思い出しました。
 ザゴラの街を後にして、ワルザザート方面へ70kmほどで三叉路を東に分岐し、地方道108号線へ入り、80kmほど先のタザリンの街を目指しました。この間の沿道は多くの山岳を超えることになり、意外に時間を要したかもしれません。しかし、どの光景もどれひとつとして同じものはなく、何度も車を停めてカメラのシャッターを押し続けたものでした。タザリンからアルニフという小さな街まで65kmぐらい、この街であまり空腹でもなかったのですが、昼食を摂りました。多少車の旅の疲れもあったのか、野菜中心の食事でした。食後のお茶を頂き、トイレに行ったのだが、ここでひと騒動でした。ドアの鍵が壊れていたのか、用をたしていざ出ようとすると、ドアが開かないのでした。ドアを何度も叩き、誰かを呼ぼうとするも応答がない、そうこうしているうちにミミ君が外から声をかけてくれて、ようやく脱出できたのでした。
 騒動も収まり、いよいよ砂漠の入口、リッサニの街を目指すことになりました。すでに午後五時前後、陽の傾き度合いが増し、そのせいか大気が黄色く霞んでいました。リッサニの街を素通りして、国道13号線をメルズガ方面へ南下し、ました。ミミ君の知り合いが経営するオーベルジュは二つの街の中間点から少しだけ東へ入った大きな砂丘の前にありました。幹線道路を逸れて明かりの灯る方向へ向かうも、車が轍を少し避けたところで、スタックしてしまいました。しばらく彼が一人で砂をかき分けたりして脱出を試みるも、時間が経つばかりで途方に暮れてたところ、幸いにも通りがかりの地元青年三人の手助けで15分後には堅い地面の上に出る事ができたのでした。目指すオーベルジュはすぐそこにありました。が、運悪く全室満杯で、成す術なく、メルズガの街に向かうことになりました。およそ20kmで街灯の灯る街に入り、細道を頼りにLes Portes du Désertというホテルに到着しました。ここもミミ君の馴染みのモロッコ人の経営するホテルであり、空いた部屋を確保できたのでした。午後九時前に遅い晩飯を食堂で摂ることになりました。このホテルは「パリダカ」や究極のマラソンレースの舞台となるためか、練習に訪れていたスペインチームの打ち合わせに遭遇するというハプニングもありました。ホテルの中庭にはプールもあり、欧米人好みに仕立てられ、当然宿泊客もほとんどがモロッコ人以外の観光客で占められていました。遅くなりましたが、部屋内では通じないwifiのため、中庭に出て当日のまとめを書き上げるために一時間ほどパソコンに向かい合いました。その後は部屋に戻り、すぐに就寝、翌朝を迎えることになりました。

 以下2017年4月にモロッコ南部の辺境をドライブした時を思い出しながら綴った旅日記です。2023年9月9日の早朝に起きた南部地域の未曾有の大地震のことはもちろんのこと、当時は此の辺でそれが発生するとは想像だにしませんでした。

シディイフニのコンドミニアムは一晩中大西洋の波がドドーン、ドドーンと響き渡り、湿った大気は薄い霧となってベランダのテーブルを濡らしていました。午前八時には目を覚まし、旅支度を整え、階下の駐車へ向かいました。出入り口のガードマンに支払いをして、街中のカフェを探し、朝めしを摂りました。薄平べったいモロッコパンとジャム、オリーブオイルそれにカフェオレだけです。
 この街からゲルミンまでは60km余り、一時間余りの行程です。準国道と言える二車線の舗装道路を快調に飛ばし、ゲルミンの街の入口のゲートを潜りました。特段見るべきところもなく、ヨロヨロと速度を落としてメインストリートを過ぎ、そのまま停車することなく、次の街「アサAssa」へ行くのに東へ進路を取りました。この街以降は荒涼たる風景の連続となり、高低差もあるので、道路は当然のように九十九折れとなりました。未知の世界というのはウソであり、実は82年の6月ころにこの辺りは単車の二人乗りで通過したことがありました。当時は大部分が未舗装道路ピストであったことを記憶しまするが、現在は完全に舗装されており、三十数年前の姿は消え失せてしまってました。過去も現在もモロッコの辺境であることには違いありませんが、ただ、当時は国境紛争などもあり、モロッコの軍隊も進駐していたことを覚えています。数十キロごとに現れる小さな町、アサも取り柄のない普通の景観であり、ここも停車することなく通過しました。次の街は「アッカAkka」です。峠を降りると平坦で荒涼とした岩石砂漠が延々と続いていました。時折水脈のある低地を通過するときにはナツメヤシの林のあるいわゆる「オアシス」を見ることもありました。一見単調な荒涼たる風景ではありますが、よく見るとどれ一つとして同じ景色はありません。。地層の傾斜具合、褶曲の度合いもそれぞれ異なっています。アッカの街の入口のゲートで検問していた警察官の停止合図があり、ミミ君は車の書類一式を提示していました。その間に小生は車を下車し、ゲートの両方向から写真を撮影していたら、突然一人の警察官が近づき、写真撮影は禁止だと言われました。そして、撮影済みのコマをチェックし、ゲートが写っているものを面前で削除するように命じられました。それ以上は咎められることはありませんでした。ミミ君の話しでは昨今は特に警察官が写ったものがSNSに投稿され、それが問題になる、つまり、職務怠慢ということで後日上司からけん責され、最悪職を失うこともあるとか。保安上の理由より、そのような職務上の怠慢が問われるのを恐れているということのようでした。
アッカの街中の食堂で昼飯を摂り、しばしの休憩後、「タタTata」の街を目指すことになりました。相変わらず風景は単調であるものの、羊飼いやラクダの群れが突然現れたり、意外とハプニングは起きるものでした。タタに入ったのは午後三時を過ぎていたかもしれません。ここでも休憩、ミントティーを飲みながら一服するのでした。次第に陽が傾きはじめ、この日の終着は「フムズギットFoum Zguid」
で決まりでした。この先まだ数十キロは優に残っていました。斜めから差す太陽が醸し出す山々の陰影はそれはそれは見事であり、この最終区間では大きな割れ目の底に水を湛えた川が望める箇所があり、断崖の眼下50mほど、川筋に沿ってナツメヤシ畑が続き、対岸の彼方には軟弱な地盤が複雑怪奇に抉られた地形が望めました。単調に見える風景の中にもこのような変化が見られるのでした。
 フムズギットの街のゲートをくぐるころには街の背後に迫る山塊が黒く光を失ってしまっていました。この地方小都市には観光客用のしゃれたホテルはなさそうでした。むろん我々には縁のないホテルではあります。二件、三件と尋ねた中で地方の田舎宿みたいな、それでいて、雰囲気のあるホテルが見つかり、そこにチェックインしたころにはすっかりよい闇が迫っていました。

 以下2017年4月にモロッコ南部の辺境をドライブした時を思い出しながら綴った旅日記です。2023年9月9日の早朝に起きた南部地域の未曾有の大地震のことはもちろんのこと、当時は此の辺でそれが発生するとは想像だにしませんでした。

 旅慣れたつもりの自分でも、さすがにマラケシュを発つことから、眠剤を服用するも睡眠が浅く、約束の時間に遅れそうになり、ホテルの朝食を辞退する羽目に陥り返す返すも残念至極でした。
 さて、約束の時間より10分ほど早く、ミミ君は赤のSWIFTをホテル近くのカフェの前に乗り付けていました。マラケシュからアガディールを目指し、地方道を選びながらイミンテヌート近郊の市場に着いたのは午前11ごろ、折からの市場(スーク)開催中で混雑する中を休憩と昼飯を兼ねて二時間ほどを過ごしました。足元も悪く、よそ見をすると転倒しかねないほどの荒れ地の中でした。注意を怠らず、雑貨、青果、野菜、肉売り場を隈なく散策し、肉屋で羊の脇腹肉を1kg購入し、焼き専門の狭い店に持ち込み、焼きあがるまで待つこと15分、ミントティーを飲みながら、のんびりと休憩したものでした。羊肉は意外に硬く、飲み込むのにも難儀しましたが、塩とクミンだけのシンプルな味付けだけで実に美味い。三切れほどはさすがに余しましたがまことにもったいない話でした。ホブス(モロッコ風パン)と焼き肉で満腹感は半端じゃなく、車までたどり着くにはよいしょが要ったことはいうまでもないことでした。地方道を選択しながらアガディール手前で有料高速道に進入、30kmほどだけ走行し、アガディールの街中へ進入しプラージュに出て、ここでも一休みしました。カワメルサ(カフェとミルクの半々)をちびりちびりすすりながら日曜日の海岸を散策する人々を眺め、タバコを燻らし、至福な時間を過ごしました。ミミ君の話ではこの地への欧米観光客は随分と減少し、ロシアなど東欧圏からも目立って少なくなっており、観光客がもたらす経済効果の落ち込みが影を落としているとのことでした。アガディールは1961年の大地震で街は壊滅し、その後建設された新都市だけが様相を一転させたようでした。
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 マラケシュから郊外から地方道を選択、MEJJATという町へ向かう途中。
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 MEJJAT近郊、スークに立ち寄り、二時間ほどを過ごしました。
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 MEJJAT近郊のスーク、イチゴが山盛り。良い香りが充満してました。
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 MEJJAT近郊のスークにて、西瓜の季節到来でしょうか?
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 トマトも驚くほど安価でした。モロッコ料理には欠かせないのがトマトです。
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 スークに押しかける近郷近在の民衆たち?屋根上まで満席でした。
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 イミンテヌートの街並、なだらかな丘陵地に張り付くように。
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 アガディール終点の高速道路料金所、30km余り走り、20dhぐらいでした。
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 アガディールのプラージュ(砂浜)は日曜日の家族連れで賑わってました。
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 旅のお供のSUZUKI、SWIFT嬢。平均燃費は22kmぐらいである。5段変速、マニュアル車でした。
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 シディイフニの沖合には大型貨物船も見えてました。
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 シディイフニで遅めの夕食、アントレはハリーラでした。昼飯の羊肉が胃もたれし、二人とも少な目の晩御飯でした。
 アガディールから先はミミ君も不案内の様子で、どこまで南下するかは、コンディション次第、ともかくまずはティズニットまで100kmあまり、道路は思いの外整備されており、しばらくは往復四車線の真新しい道路が続いてました。ゲルミンという街までまだ200km余り、その時点で陽も高く、途中から大西洋海岸のシディイフニへ立ち寄ることにした。が、これが舗装されているものの、対向車が来るごとに減速を余儀なくされ、時間を消費するばかりでした。
 景観は次第に大きな禿山の続く荒涼としたものとなり、谷あいの水脈のあると思われる一帯はアルガンオイルを産する樹木の灌木が単調に続いていました。
 シディイフニに着くころには陽も完全に傾き、うす曇り、細かい砂が舞い上がる大気の中に見える太陽は白く満月のように沈みつつありました。市内に進入後、ここでもプラージュに向かいました。ミミ君の言によると知人らはこの辺まで釣りに来るとのことで、彼は一度は砂浜を見ておきたいからとのことでした。砂浜に面して、閑散期のコンドミニアムがあり、閑そうな門番のオヤジに聞くと、二人で200dhだと言う。すぐに室内を拝見し宿泊決定しました。バスタブはないものの、熱いお湯もあり、またWifi電波も強く、偶然とはいえ、潮騒の音が響く、バルコンはやや湿度が高いものの、18度ぐらい、快適な一夜を過ごせそうでした。→続く

 2017年4月 
 2010年以来のモロッコ旅行でした。この節は友人の小さな車「SUZUKI SWIFT」にて四泊五日のモロッコのアトラス山脈の南側の特に辺境を探索するドライブとなりました。80年代の初め頃、単車でほぼ同じコースを辿ったことがありましたが、今回はどこも完全舗装の道路ばかりで、砂利道を走ったことはなく、隔世感のある進化したモロッコの一端を観た思いがありました。
 ハイライトは何処かって?それは野暮な質問かと思います。どんな風景も全てが魅惑に富んだ素敵なものであるから、道端の岩石ひとつでも、化石を発見したり、興味は尽きません。地球の悠久の営みが露骨に反映された異次元の世界が待っていました。

1981年??月
 モロッコ、赴任先のマラケシュでの生活にも次第に何とか慣れつつあった時期に大西洋岸のエッサウィーラという街の隊員を訪ねることがあった。そこまでは単車を駆けて三時間余りぐらいだったろうか。距離数は180kmほどである。2017年4月にそのコースを辿ったことがあったが、沿道の風景は随分と変ってしまっていたが、無理はない、三十数年も経ったのだから。
 マラケシュは内陸にあることから、乾燥度合いが高く、街を一歩でると、灌木あるいは、岩石砂礫の荒涼とした風景が続くのである。その光景は大西洋岸に近づくに連れて、大きく変化するのを見ることが出来るのである。劇的に変貌するのは、海岸から五十kmぐらい辺りからである。大西洋の湿り気を含んだ冷涼な空気は内陸からの高温乾燥した空気と混じり、それが霧を発生させるのである。むろん、様々な条件があってのことではあるが、海側から流れて来る湿った空気を感じると、やがてエッサウィーラの白い街が峠の下に展開するのが見えるのである。
 エッサウィーラの産業は主には漁業で成り立っている。街の成り立ちは古く中世のポルトガルに支配された時代にまで遡ることが出来るのであり、その当時の遺構も要塞として沿岸部に展開されている。歴史的な謂れの詳細は別にして、何よりもここの漁港で水揚げされる魚種に目を引かれた。魚と言っても、北緯32度ぐらいに位置するのだから、温帯域にあるわけで、魚種だって、四国の瀬戸内海とは大差ないものぐらいに想像していたのであるが、魚市場に水揚げされた魚たちを見ると、その多くが寒流(リマン海流)に生息する類の魚種なのである。つまりは、鰊(ニシン)や鱈(タラ)、その他は鯵(アジ)や鰯(イワシ)が幅を利かせているのである。エッサウィーラ沖は寒流とアフリカ南部から北上する暖流が交錯する好漁場なのである。
 当時も隊員仲間と一緒に漁港付近にある露天で脂の乘ったアツアツの鰯の塩焼きを食すのが恒例であった。僅かにレモン汁を垂らして、手掴みで頂くのは最高の贅沢であったかも知れない。2017年の訪問時には随分と港湾施設も改善拡張されたいたし、砂浜に沿った遊歩道には大勢の観光客の姿も見えた。街中の通りには携帯電話屋が立ち並び、当時を知るひとりとしては、感傷ばかりが迫ってきたように思う。
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この展望台からエッサウィーラの街を一望できる。その先には大西洋が広がっている。
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漁港に水揚げされたばかりの魚種、タラが見える。
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1981年当時、エッサウィーラのメディナ(旧市街)で見掛けた少女、すっぽりと身を包む衣装がこの地方独特の雰囲気を醸していた。小さいながらも実に見事に着こなしていたのに驚かされた。

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