Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

2019年06月

小生の愛車は今話題のプリウスである。第三世代前期というから相当に年期が入った可愛いやつ。その仲間たちがとんでもないような事故を連続で起こし、社会を賑わし何かと非難に晒されていることに対して自然発生的に物申さねばとの思いが沸々と沸いて来た。
このプリウス取得以降は通勤に使用することは全く無くなった、つまり退職後に手に入れたものであり、使用頻度は日々、月々に大きなバラつきがある。丸四年余りで走行距離七万km余り、年間二万km足らずということで、月平均なら千五百km程度なので、やや多めかな?ぐらい。
この車、実に実用的(変)であり、これまでのカーライフに革命を与えてくれたと確信している。それはどうしてなのか。
先ずは丁度いい大きさが上げられる。これまで、様々な車を乗り換えてきたが、ようやく自分に合った車に行き付いたという感じなのである。実は五年ほど前に厄介な病気で頸椎を手術したことで、身体の自由度が極端に低下したことで、乗り降りに難ある三菱の4WDチャレンジャーを直ぐに手放し、日産のマーチという小振りな車に乗り継いだのであった。この車はそれなりに小回りが利いて故障もせずによく走ってくれたが、小さい割に大食いだったし、居住性はどうしても犠牲にせざるを得ないところがあった。頭の中に、車で思い切って日本周遊をしてみようと思い描いていたものの、マーチではどうしても窮屈だし、仮に車中泊となった場合には悲惨なことにもなる。
ある日、ネットオークションを閲覧していると、プリウスが何十台も出品されているではないか。それも直ぐに手に届くぐらいの値段の設定なのである。数台を俎上に挙げて、吟味に吟味を重ねて、とあるプリウス(現所有車)を落札、車は奈良県の生駒市にあったので、単身引取りに行き、そのまま乗って淡路島を経由して戻ってきたのである。名変など済ませて晴れて車庫に止めてマジマジと眺めてみると元々スタイル、とくに後部バンパーの両端部の切り落としたような斬新さ、にあらためて「これから宜しく」と声を掛けたくなったものである。
第三世代のプリウスは売れに売れて、発売当初、否一年二年ぐらいは何カ月待ちというあり得ないようなヒットが続いていた。その後はご存知の通り、巷には、全国津々浦々このプリウスが走り回っている光景が当たり前となっているのである。数年間は車種を問わず、販売台数のトップを維持していたというほどの売れ筋車種となっていた。
詳しいデータを持ち合わせないが、年間二十五万台が四年間続くと百万台というとんでもない台数のプリウスが道路上にあるわけで、目に付く訳も当然である。
そのプリウスが昨今、交通事故発生の頻度が高すぎるのではないかとの批判が湧いてきているのである。プリウス好きは比較的な高齢者が多いのは事実であり、ドライバーは白髪のご老人というのは良く見掛けるのである。プリウスの重大な交通事故の原因者はたいがいが高齢ドライバーであることがやり玉に上がることについて、その理由にアクセルとブレーキペダルの踏み間違いを指摘する専門家もいるようであるが、それにはプリウス愛好家の一人として全く同意できない。プリウスのアクセルとブレーキがやや気になるほどの事ではないが、左にオフセットされているかもしれないが、それは慣れの問題程度の事であり、どんな車でも自然に乗る内に慣れてくるもので、批判の対象にはなることはない。
先に書いたように、このプリウスという車種が余りにも売れていることから、確率的にも事故を起こす頻度が高いのは当然であり、運転者が高齢者が多いのも当然である。
プリウスのシフトレバーがハイブリッド車特有の電気的な制御であることから、機械式の操作に慣れている場合に乗り換えて直ぐは戸惑いがあるのは事実で、小生も覚えるのにはひと月以上はかかったと思う。世の高齢者が事故を起こすのはこのハイブリッド車の操作が咄嗟の時にそれまでの運転歴の癖が出るのではないかと思っている。高齢者の判断能力や運動能力の低下が事故を誘発するのであって、車自体に非があるとはとても思えない。
プリウスミサイル、こんなとんでもない物騒なフレーズがネット上に散見されるが、彼らがこの車のオウナーならば決してこんな名付けをすることは無いと思う。
DSCN6772
第三世代前期のプリウス、ハイブリッド車普及の先駆者(車)。
マーチ7
可愛くもやや不満のあったマーチ。
チャレンジャー6
十年余り活躍してくれた三菱チャレンジャー。











平日、月曜日から金曜日までの毎日午後0時半から4時までの三時間半を「ごごラジ」というNHKのラジオ第一で放送されていることはこのブログで4月12日に投稿済みである。このNHKのラジオ放送はネットアプリでも聴くことができるので、大変重宝している。このネットラジオには「ラジルラジル」という今風のタイトルが付されている。ラジオ第一、第二、FMと三つの番組に対応している。ネット経由であるためか、番組には実際の時刻とは幾分の遅延があることを承知しておかないと、時報合わせ(今時にはこんなことをする機会も殆ど無くなった、否、必要なく無かった)や緊急地震警報などには当然対応していないので、特に台風や地震など大災害への備えという面では大きなハンディがあるということである。が、それを埋めて有り余るほどのメリットがあるのに気付くのである。それは長波特有の雑音混信に邪魔されることがないため、音質はクリアーそのもの、特に音楽番組ではFM放送を凌駕するはずである。次には、聞き逃しサービスがあることで、ジャンル別に好みの番組を自分の都合に合わせることができるということ、非常に利便性の高い機能だと思われる。
ラジルラジルでの放送が始まってから直ぐにアプリをパソコンにもスマホにもインストしているので外出時でもネット環境さえあれば(Wifi)常時ON状態である。
こんな世の中になろうとは、わずか?三十年前には想像することさえできなかったのである。

もともと、ラジオやテレビなど公共放送へのリクエスト、昔は葉書や電話が主流であったと思うが、これまで一度たりとも投稿さえしたことは無かった。そもそも、何千、何万という熱心な投稿者の中で選ばれることなんて、宝くじ同然、期待なんかするだけ無駄、そんな性分だから、最初から関心がないのであった。特にラジオ放送を聴いていると、同じようなラジオネームのお方が何度も出てくるのに気付くたびに、一体どんだけ、投稿しているんだろうか?少ない番組の中で、週に何回も同じネームを聴くとなると、コツでもあるんだろうか?と思うようになってしますのである。

さて本題、「ごごラジ」のこと、この番組について、何よりもパーソナリティの武内陶子さんの語り口が自分の性に合っているということか、聞き流すだけでも憂さ晴らしになるという不思議な体験をすることが出来るのである。番組の始まりの三十分は様々な音楽を、一時以降はテーマが決まっており、それぞれの専門家が番組に加わったり、ゲストのタレントと共に番組が進行するというスタイルである。当然、国会中継などが挟まれば早期終了ということになるのは致し方ない。

先に書いたが、番組への投稿なんて、阿保らしいぐらいの感覚だったものの、ごごラジを聴くうちにそのテーマが「富士山」ということで、陶子さんもそれについてどんどん投稿してとのお願いをしているのを聞いて、番組HPにアクセス、そして短いメールを一枚の写真と共に僅か10分ぐらいの手間でPCから送付したのであった。6月27日(木)午後、番組を車の中で聞き流していたところ、午後3時過ぎ、突然のように(そう思われた)自分が二時間前に投稿したメールが陶子さんによって読まれ始めたのである。メールの内容は自分が昨年の4月にフィリピン旅行したときにルソン島の南部のレガスピという街の外れにある「マヨン山」の姿形が余りにも秀麗であったことを書いたものであった。マヨン山はルソン富士とも言われ、侵攻していた日本軍兵士たちの心の拠り所であったと。番組参加の専門家もマヨン山のことを当然知っており、大きな賛意を頂いたのであった。
要は、こうした投稿が机の上のパソコンからいとも簡単にできてしまう、初めての投稿もこれからは自分の少ない知識体験の中からでも合致するものがあればどんどんやってみよう、そんな便利な世界を体験したということであった。
ごごラジ1

ここをクリックしてくれれば7月4日までなら聞き逃しとして聴けるはずである。番組の-25分ぐらいの位置である。









中華人民共和国は改革開放政策が「鄧小平」によりその道が拓かれた。時代は1980年代初頭のころ、彼の開放政策のスローガン「白猫であれ、黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」このフレーズはほとんどかの国への関心の無かった自分でさえ、頭に残っている有名な言葉であった。
紅衛兵と江青に林彪が追われ、改革開放の先駆、周恩来から鄧小平へと引き継がれた中国はそこから昇竜の勢い、この四十年の歩みの早さは恐らく誰一人として想像だにできなかったと思う。
二十世紀は映像の世界、その典型はブラウン管テレビで放映され続けていたアメリカンドラマじゃなかろうか?名犬ラッシー、ベン・ケーシー、保安官シリーズなど一方的に流入しお茶の間を占領したものであった。その間、巨竜は一体どうしていたんだろうか?眠っていたのか?それとも来る時代に向けてのモラトリアムであったのか?一衣帯水の隣国中華人民共和国のこと、遡ってもう一度(ってか、何を今さらじゃないか)顧みてみようと思う。
日清戦争(1894年)に始まり太平洋戦争の敗戦(1945年)の半世紀にもなる戦の時代には常に中国が絡んでいた。この間、一度たりとも盟友となった期間のないまま、まことに不幸な時代を過ごしたと思うのであるが、終戦で瓦礫と化し、再起不能とも言われた日本に対して戦後賠償についてはほとんど要求することなく(蒋介石総統率いる中華民国)疲弊の極まりの中で、義理恩の傘の下にあったことは間違いなさそうである。
本来の中華民国の国民党軍と毛沢東率いる人民解放軍の国共内戦の結果、蒋介石は台湾に追いやられ、1949年10月に現在の中華人民共和国が成立、毛沢東は天安門の檀上に立ち、誇らかに中華人民共和国の建国を宣言したのである。

その天安門に纏わり、未だに人民政権が隠蔽せねばならないような事件が1989年6月に発生したのであるが、今に至ってもその詳細はいくらネットを駆使しても判明していないのである。

六四天安門事件は、1989年6月4日に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し多数の死傷者を出した事件である。 通常「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指す。←
https://ja.wikipedia.org/wiki/六四天安門事件

奇しくも半世紀後、毛沢東主席が建国宣言をした天安門においての騒乱?は時の政府を震撼させたはずで、鎮圧には公安だけでなく人民軍まで動員するという異常事態は世界の注目を浴びていたのであるが、その後の管制が半端なく厳しく、行方不明の数千名ものデモ参加者数と政府との齟齬の大きさには驚かされる。事件後三十年を経ても追悼行事が大々的に行われることも無いまま、五里霧中の事件は次第に影を薄くしつつあるのが感じられる。
この事件=騒乱について、一体中国政府の統制における異常なほどの行動にどうしても関心が向くのである。それは同国民同士であっても何故に骨を砕き、肉を切り刻むほどの憎しみをいくら軍隊動員であっても行使できるのか?そのような残酷さは日本国内の内戦の中で行われたことがあろうかと、振り返ってみると、やはりあり得ないというのが実情であり、そこには大陸的な思考がそのようにさせることに幾ばくかの躊躇も尻込みをももたらさないから、できるのではないかと。
1937年北京郊外の日本軍通州守備隊が中国軍に急襲されて、日本軍守備隊、在留日本人および居留朝鮮人総計三百名近くが虐殺された事件、通州(虐殺)事件のことで、どこかに天安門事件と共通するところがあるように思われるのである。混乱期の通州事件と天安門事件とではその政治体制などには大きな違いがあるものの、戦争、騒乱などによる人身への飽くなきほどの棄損が異常だということである。通州事件の詳細はWikipedeaの中に書かれているが、読むのも憚られるほどの残忍性には反吐が出そうになる。
20130930_411284
共和国政府にとって、広大にして多数で異種の人民をひとつに束ねることの困難さには、締め付け、統制するしかないということのようである。チベットもウィグルなどは漢人と共通する部分を探すのが難しいほど、漢人には異端といえるほどの異文化の中にあると言える。
一千万㎡の国土、14億人の人口、22の省、5の自治区、その他北京市など4の直轄市、香港、マカオの特別行政区から成り立つ国家、1949年10月1日が建国宣言の日である。
世界第二位の経済大国にわずか70年で果たしたことは一見驚異的ともいえるが、グロス=全体では巨大ゆえに自然に果たせることであり、問題はネット=正味である。人民政府の採ってきたきた政策の正しさを誇示するときに使うのはグロスであり、ネットはほんの言い訳ぐらいにしか説明しないのが常である。鄧小平が述べたという「豊かになれる者から豊かになればいい」、この通りになっているのが現在の中国の姿かもしれない。ここには豊かになれない者と豊かになれた者との格差が余りにも大きくなりすぎ、本来の社会主義の目指す社会とはまるで正反対の社会が固定化されつつあるのが問題なのであり、較差拡大への不平不満が中国全体に拡散し、各地で燻り始めているのが政府の締め付けを更に強固にしているようでもある。
巨竜は上昇するときには見あげるように誇らしく偉大ではあるが、一転して、下降への道を辿ることになると、巨大さゆえに統制が行きわたらず、終には分断、破砕されてしまうのはまるで物理の法則そのものである。
丁度良い大きさという理想から大きいほど良いとの妄想に取りつかれた政府の元にある人民こそ不平不満にいつまで堪えられるのか、まだまだ社会実験は続くのだろうか?

歳をとったからだろうか?この頃の季節の気温には閉口する日々が続いている。朝方の気温は18度前後で、日中の最高気温は27度ぐらいだろうか。日気温差は10度ぐらいである。一年の内ではこの10度ぐらいの気温差があることは稀なことではないのにである。普通の人間(笑)が一番動くのに適温とされるのは19度から20度ぐらいだとされている。実際普通の人間と自認する自分でもその通りであり、少々の動きのある場合には汗をかくこともなく快適に活動できるのである。
人の体温は平均36度半ぐらいであるのは誰でも知っていることであるが、快適に過ごせる気温が19度であるとしたら、その差は17度ぐらいであり、結構大きな差があるものだと今さらながらに感じる。
思い出してみるのだが、幼少のころには気温なんてそれほど気にすることもなく、夏は暑く、冬は寒いぐらいの感覚で、温度計にいちいち目を遣ることなんて無かったのである。それでも、昨今よりは明らかに気温は平均でも二度から三度は低かったとの思いがある。真冬の通学時に未舗装の道路の水溜まりに氷が張ってることは珍しくもなく、大麻山の頂上付近の斜面には筋状に白く輝く雪が何回も見られたのである。また、夏は夏で、エアコン無しが当たり前の環境、扇風機や団扇で暑さを凌ぐだけで十分でもあった。つまり、真夏日はあっても夏休みじゅう続くなんてあり得なかったし、まして猛暑日などまだそうした用語自体が無かったと思う。
地球温暖化、気候変動など身辺にはほとんど関係の無い気象のこと、それがじわりじわりと生活に影響を及ぼしつつある、それが余りにも変化の度合いが緩慢であるだけに厄介である。
地球という衛星の気の遠くなるほどの創生の歴史からすると、寒暖は大きなサイクルをもって変化しているとされ、特に寒冷期には全球凍結なんて恐ろしい時期もあったとか、それらが何度も繰り返される中で人類が環境変化に適応し、最強となって地球上で繁栄しているのである。
NHKの人気ラジオ番組の「こども科学電話相談」でも一番人気なのは「恐竜」のことである。ティラノザウルスなどの大型肉食恐竜には興味が尽きないのは大人も子供も同じなのかもしれない。二億年前ぐらいから数千万年前までこの地上を支配した時の長さを思うと、彼らの謳歌が何故にある時期を境に絶滅に向かったのか?諸説あるものの、どれもに共通する原因に挙げられているのは「気候変動」のことである。中には途轍もない大きさの地球外天体の衝突説もある(非常に有力のようである)が、それはひとつの要因になったものと思われる。衝突の衝撃が地球全体に伝播することで、太陽から降り注がれるエネルギーが遮られることで、気温が低下し、多くの植物がその再生サイクルを維持できなくなることで、食物連鎖の頂点に君臨していた恐竜(草食、肉食を問わず)も次第に食物に瀕することとなった。これが一番理由の立つ絶滅の原因だと思われる。
yjimage
人の世界も僅かに数百年、否数十年前でさえも、現在のようなエネルギーに恵まれた社会を体験することは無かったのであり、この間の世界の変貌ぶりは正しくあり得ないぐらいのである。
小生は常々、太陽から地球に注がれるエネルギーはほとんど一定であり、多少の変動はあったとしてもそれが生活に大きな影響を及ぼすことにはなりえないと思っている。どこかで大雨が降れば、どこかには日照りで乾燥する、どこかで気温が低下すればどこかで暑さが募ることになる。また、石炭や原油など化石燃料は過去のエネルギーの堆積物、蓄積物に外ならず、それをこの二世紀は三世紀の間に取り出して燃焼させても、いくらかの気候変動はあるとしても、それが生活を一変させるほどの影響を及ぼすことは無いと思うのである。だからと言って、使い放題というのは宜しくない、再生可能エネルギ源確保にはこれからも大いに投資すべきであり、局地的な異常気象には効果的だと思うからである。
確かに、僅か数十年でも体感できる変化があるのかもしれないが、それは長い長い地球の営みからするとほんのとるに足りないほど瞬く間のものであり、針小棒大に事を大袈裟にすることはむしろ経済活動を委縮させるだけとなるのではなかろうかと思う。
もう直ぐあの暑い夏が目前で、今年も去年のような猛暑日が何日間かは続くのであろうか。さすがに四十度越えともなると、それも何週間も続くとなると、どこか亜熱帯とか熱帯雨林の国々へでも行きたくなるかもしれない(笑)。





















今年の内には古希をむかえることになるが、これまで実に様々な趣味に手を出したと思う。
その例を挙げてみると、
① 野鳥の飼育
② 模型製作
③ 単車(オートバイ)と車
④ オーディオ
➄ 釣りと釣り船
⑥ 国内外旅行
⑦ カメラ(写真撮影)
⑧ 農園野菜栽培
⑨ 無人航空機=ドローン
⑩ ??
以上、思い出すだけ(これ意外にもあるはずだけど、挙げるのが憚れる)でこれだけある。趣味の範囲だから目くじら立てるほどのことはない、しかし、どれ一つとしてそれを突き詰め、確固とした成果?を挙げて他人に自慢できるものでないことだけは確信できる(笑)のだから始末に負えない。
一つづつ振り返ってみるのも面白いかと思う、ただし、そんなこと、些かの興味もないという方々(ほとんどだと思う)は読み飛ばしてくれて結構である。


大学を卒業することになった1973年の初頭、小生は今でいうところの就活をするわけでもなく、アルバイトで手に入れたピカピカの一眼レフカメラASAHIPENTAXを毎日のように持参してカメラ技術の習得に努めていたのである。それには待ち構えていた大きな目標があったからだ。一眼の練習には高価なカラーフィルムを使うことなく、モノクロばかりで、とも角場数を重ねるだけに時間を費やしていた。カメラ=写真にそれほど入れ込んだ理由は温めていた大きな目標「シルクロード」を辿るということはユーラシア大陸、地球の陸地の大部分を占める心臓部を可能な限り西に向かうという(自分には)壮大な夢の実現に掛けていたからであった。

現実的には当時のロシアはソ連邦社会主義人民共和国という長たらしい名前の国を通らざるを得ず、むろん、中国の西域へ向かうのはとてもとても一般人がすんなりと受け入れられる環境にはなかったから、ソ連経由は止むを得ずの唯一の選択肢であったからであった。ソ連邦を個人旅行するにも、自由に何処へでもという訳にもいかず、ソ連邦の旅行社=インツーリストを介して事前に旅行計画を提出、行き先ホテルまで指定されるという面倒この上ない不自由な手続きを踏むことになっていた。ヴィザの取得も当然同時に行い、いよいよ出発日時が決まり、大学の卒業式に参列することもなく、四月上旬には旅支度を整えて上京し、高校時代の同級生の下宿に二日ほど居候その間に横浜、鎌倉など観光しながら、不安と期待の交錯する時間を過ごしたのであった。

そして、いよいよ出立の日がとうとう現実になって、もう二度と日本の地を踏めないかもとの思いも片隅に置きながらも、今さら引き返すこともできない、もうままよというぐらいの投げ槍さで横浜港の山下桟橋に接岸していたジェルジンスキー号に乗り込んだのであった。このソ連の旅客船は横浜から津軽海峡を通過して、ソ連邦の沿海州のナホトカまで二泊三日ぐらいの航路であった。
見送りに来てくれた同級生と彼の知り合いなどが船のデッキから小さく見えていたのを何とか思い出す
ことが出来る。
IMG_0095
IMG_0152
五色の紙テープが何十本も投げられて、ますます心細さが沸いた来たのを思い出した。船中は、当時流行っていた五木寛之氏の小説「青年は荒野を目指す」に感化されたのか、大勢の青年が乗り合わせていたのであった。船中はもうすでに外国であり、初めてのロシア語の案内放送にドギマギし、続く英語の放送もほとんど聞き取れず、ますます不安が書きたてられていたのであった。→ 続く。

















このページのトップヘ

いつもお読み下さりありがとうございます。異論反論あるかと思います。ぜひコメントお願いします。