Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

2018年09月

熊本市議会議員の緒方市議が話題となり、ネットを揺るがす事態となっている。緒方市議(女性)は昨年は自身の乳児を議会に連れて来て話題となっていわく付きの議員である。このように書き出すと自分が悪意をもってこの事態にせっしているのではないか?と思われても仕方ないかもしれない。悪意ではなくこの議員がそもそも何を示したいのか、議会をどのような場と認識しているのかが知りたいだけである。この件についてはほぼ大方がこの議員の行動には示威としかいいようのないとのコメントであるのが分かるし、常識の欠如ということに気付いていないことが昨年の乳児の件に続きこの喉飴事件?を引き起したということである。この件についての彼女の釈明も彼女らしい一流な理由をつけている、しゃーしゃーと述べるのを聞いていると(記事を読むと)どこか肝腎なところでその流儀が間違っているのではないかと普通に思えるのである。乳児の件については、確かにニュージーランドの首相が議会に乳児を連れて来て授乳までさせていたというニュースを聞いたことがある。まさかそれを真似たわけではあるまいに、日本の地方議会では古めかしいかもしれないが、こうした特異 な行動には賛意を得られない。それが許される時代がいずれかの将来には可能になるかもしれないが、昨今の情勢ではとても容認出来ない行動として反感を買うことになるのは自明であろう。あえて、このような目立つ行動にでることで働く女性の力強い味方を演じるとするなら、その地位がそうすることを可能にしているだけである。一般の民間企業であればとても許される行動ではない。面談に飴を頬張って望むとか、乳児を連れて面談するとか、とても有り得ないことであり、勘違いも甚だしいとしか言いようがない。
緒方市議
何かにつけ自分本位であるのが分かる。喉飴の件では咳き込むことで議会の進行に迷惑をかけるのではないかと殊勝なことを理由にしているのである。せめて十分、二十分の間この喉飴を我慢できないのか、せめてその間だけ口から出せば良いだけなのに。乳児だって、民間ならとても職場に連れて勤務することなんて有り得ない。議員だからといって何も特権を持っているかのような振る舞うことで、働く女性の味方を演じるのは、とても働く女性からの賛意を得られないことぐらいわかりそうなものなのに残念なことにそれに気付くことも、理解しようともしないのである。恐らく少数ではあろうが、彼女の背後には背中を押すような応援団がいるのであろうが、この二つの事件?を経て、次回の選挙では恐らくは涙を飲むことになるはずである。
この件についてのコメントを読んでいると、中には喉飴ぐらいで議事進行を八時間も止めたことは進行役の議長もどうかしてる、作法を注意するだけで済んだのではないかと、なるほど、確かにそうかもしれないと思う。が、緒方議員が確信犯だけに、再度の議会混乱を招くのではないかとの危惧も大きくさようしていたのではないかとも思った。目くじら立てるほどのことではない、いずれかには彼女のような行動が常識となる時代も来るかもしれない、来ては欲しくは無いけど。





産経新聞に掲載された25日付けの記事に目を遣ると、なるほどな、との思いとそんなこと無いという思いが交錯する自分が居たのである。時代が変るということはこのような言葉の用法にも変化が気付かないうちに当然のように普及していたという実態があるみたいだ。日常的に使う言葉、これは歳を経た者ほど頑くなに凝り固まっているのだろうか、世代が違えば違うほど、奇妙に思うような場面に出くわすことになる。

言語使用 
上の事例において、存続するか、滅亡するかの重大局面を表す言葉において「存亡の機」というのが本来の用法であるらしい。が平成28年度調査では「存亡の危機」と使う場合が八割越えというのだから後者が圧倒的であり、用法的にも容認できるのではなかろか。自分も躊躇せずに存亡の危機を使うひとりである。
次は卑劣なやり方で失敗させられることの場合、「足をすくわれる」が本来の用法であるらしいが、「足元をすくわれる」とする者が二倍以上もいることになっている。これもよくよく考えると自分も足元という後者の場合であるのは確かである。
そしてはっきりと言わない、曖昧な言い方をする場合に「口を濁す」と「言葉を濁す」本来の言い方としての「言葉」が多数である、よって「口を濁す」と言うのは少数派みたいである。確かに口を濁すと言うのはこれまで聞きおぼえがほとんどないように思う。本来の用法が存続している稀有な事例であるのかもしれない。
さらに次のような質問も掲載されており、興味深く読みいったのである。
言語使用1
「なし崩しにする」これは比較的に良く聞くフレーズである。あるものを無かったことにすることと解釈するのが多数であり、自分もそのように理解し使用しているように思う。しかし、本来は少しずつ返していくこと、と言うことらしい。思いもよらない意味となっているのである。
「檄を飛ばす」は相当頻繁に使用される言葉であり、本来は自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること、ということらしいが、檄が激となって元気のない者に刺激を与えて活気付けること、と三倍以上の理解者がいる、自分のその内のひとりである。
そして「やおら」、なかなか理解しているようで、相当曖昧な使い方をしている言葉のひとつである。
自分の中では「やおら」は頭の中の棚には無い言葉であるものの、感覚的には「ゆっくり」が馴染まれ、急に、とか、いきなり、突然という響きのない言葉である。これは本来的な用法が優位のようである。
元来、仔細にはこだわりのない性分なので、あまり深く言葉の用法を追求したり探索したりするつもりは毛頭ないのである。自分が使う場合には何気もなく、意の趣くままなのであるが、それが第三者など他人が自分の思いの外の場面で使うとなると、異常に気が向くのである。世代が変われば言葉に対する本来の意味は変化するのは当然とはいえ、許し難きもすんなりと受け入れ難い嫌な性格の自分が居るのである。






同じ広島高等裁判所が出した伊方原発3号機の運転差し止めの仮処分決定が覆ったとの判決を聞いて、これこそ全うな判決だと思った。
先の判決理由を聞いた時には唖然とさせられたことを覚えている。四電側が即時抗告したのは当然であった。何と、判決の大きな理由として阿蘇山の破局的噴火が130kmも遠隔の四国の伊方まで及ぶ可能性に触れていたのである。このような自然災害の可能性に触れるとなると、社会そのものが成り立たないのではないか、それを中国の故事に例えるとすれば「杞憂」と言うものそのものである。つまりは、馬鹿げていると言いたいのである。このような判決文を書いた裁判官の顔が見たいものである。可能性については百年に一度、千年に一度、万年に一度、百万年に一度と、その確率を突き詰めるとなると、明日のこと、数時間先のこと、数分先のこと、数秒先でさえ、誰ひとりとして予想することはできない。裁判官の言うことは、そうした確率に重きを置いたことで、すでにその理由は破綻しているのである。
伊方原発はその立地に当初からフォッサマグナから西に延びる中央構造線に近接しており、確かに阿蘇からも比較的近距離にあるために、建設には多くの困難があったとされる。現在は1から3号機まで存在し、1号機は廃止に向けて停止状態で、2号機は稼働中で、今回の3号機が訴訟事案となっていたのである。原子力安全規制委員会の安全審査を充足したことで、稼働直前にしてのそれに反対の住民派からの差し止め請求が認められ、四電側は苦渋の対応を迫られたというわけである。安全審査は当然東日本大震災の福島第一原発の事故を教訓にして二重三重の安全対策を怠らず、検査にようやく合格しての差し止めが10カ月ぶりに無効となる判決を得たということである。
伊方原発
安全神話という魔物みたいなものが独り歩きしているのではなかろうか。安全が完璧でないと容認出来ないなど言うことになれば、現在の社会そのものが成立しないのではないか。原発に限らず、全てのインフラは安全に関してはその安全度を既定して、無制限な安全を保障しているわけではないことを自覚しておかないと、自然災害を直ぐに政府や自治体の怠慢だとする視点に行き着くという悪習が蔓延ることになるのである。社会の豊かさを享受するということは、その反対側の災禍も甘受する気概も無ければならないということであろう。
自然災害への対応に関しては同じような事例として、宮城県の気仙沼市の先の大震災対策の沿岸防潮堤工事において、その堤高が施工ミスにより22cmほど高いということが大きな問題になっているらしい。村井知事は市や住民らの施工やり直しの要請には応ぜず、後背地の盛り土で対応すると決定した。この知事の施策は正しいのではなかろうか。設計とは異なる高いという施工ミス、確かに住民には目障り度が増すことになるかもしれないが、再施工となると施工済みの部分を取り壊した後に再度施工するには時間的にも経費的にも不合理であることは間違いない。ミスはミスであろうが、それをして行政が住民への忖度に行き過ぎがあってはならないと思う。
気仙沼防潮堤



今年は思いもかけない出来ごとが、長年の夢、ずっと放置していたものが、突然沸々と。
小生は小学六年から中学の三年間、寝ても起きても、ラジコンの虜になっていた。しかし、その遊び仲間たちがそれぞれの道を歩む、高等学校へ進学して以来、熱は急速に冷めてしまい、多くのラジコンの部品などは机の引き出しの中で、腐ることはないものの、色褪せ、埃まみれとなり、いつの間にか何処かへ姿を消してしまった。社会にでてからは、時折り専門雑誌(ラジコン技術など)を書店でパラパラとめくる程度、次第に進化しているその世界にはもはや付いて行けない、と自覚し仕事に感けてたこともあり、ラジコンからはとうとうこの歳まで無縁な世界となってしまったのである。ひょんなこと(ひょん、この言葉は何処から来たのか?気になる、木になる、調べりゃわかるけど、異端説としての動物名、これが一番好みだけど)から、ネット上の動画サイトで大の大人が楽しそうにクワッドコプターに遊び興じているのを見て、これだぁ~と直感。すぐさま動画サイトでお奨めのドローンをAmazonサイトを開き発注した、それが今年の5月下旬のことであった。
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初代ドローンがこれである。
Amazon凄い、翌日にはクロネコさんが意中の品物を届けてくれたのである。初代のドローンはスマホのWifiを使うタイプであった。手持ちのスマホはアイフォン6という少し古いタイプ、操縦用のアプリをダウンロードして、スマホの画面上の仮想スティックで上下左右回転など操縦するのである。手にしたラジコンの余りの進歩ぶりには舌を巻くしかない。ひと月ほどしたころ、6月下旬のころ、ビデオ撮影用のマイクロSDの接触不良(と思われる)が発生、どうしても送信機側で感知できない。Amazonにその旨クレームしたところ、返金するので、品物を返送するようにと。むろん、その手続をしたのであるが、その対応の素早さには感服するも、代替品を購入しなければドローンを楽しめない事態である。即日ひとつ新型アドバンスタイプを頼んだ。それはWifiだけでなく、2.4GHZ電波での操縦もできるというオールマイティなタイプで専用の送信機も付属してくるのである。空中にあるドローンから送信されてくる動画をスマホでも観れるFPVという機能があるものの、画面の小ささと伝送距離の短さなど不満は次第に募っていたのである。7月の下旬に事件?事故が発生、高松郊外の埋め立て地付近で何とロスト(喪失)してしまった。茫然自失とはこのこと。手を尽くし捜索するも空振り。酷暑の中、蜂の猛襲も懸念される環境にお手上げ、完敗宣言となった。そして諦めた瞬間に次の機体を同じくAmazonに発注した。
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二代目はロスト、上は三代目。HUBSAN H501A、送信機付き、Wifi、2.4GHZのどちらでも操縦可能である。
でも、機体のみ、送信機は手元に残っていたからである。現在に至るまでその機体は手元にあり、飛行回数だけはすでに三十回以上重ねているはずである。
先にも書いたFPVという画像送信について、いつまでも不満があった。僅か百mぐらいで画像が乱れたり、モノクロになったり、途絶することもあることに、八方手を尽くすも、全く改善されないという事態が9月上旬ころまで続いていた。Youtubeのドローンサイトで何度もアップ主に質問を繰り返し、その手順を真似ること数回、それでも何の変化もない。彼らが1km以上の距離を難なく稼ぐというのには、正直なところ、心折れそうになったほどである。個別に機体内部の瑕疵があるとしたらと勘繰るようになると、もう改善どころの話しでは済まされない。FPV専用のアンテナを交換すること二回、専用モニターも購入した。もうどこにも自分に対処できるところはない、との結論に達した。
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社外品の5.8GHZのモニター用アンテナを取り付けてみるも、改善傾向はなし。
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この社外アンテナも5.8GHZでFPV専用。何度か着脱していると、断線してしまった。数百円とはいえ、これで完全に心折れであった。
そして、9月中旬には同機種の型番違い、つまりプロペラやマニュアルは全く同一のドローンを発注した。それは新型の送信機でモニターも内蔵されているものである。現在手元にはドローンが二台、送信機が二台そのうち一台はWifiにも対応している。
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開封直後の機体HUBSAN H501S-Sと送信機HUBSAN 906A。送信機右側アンテナはFPV用受信5.8GHZアンテナ、左側は操縦用2.4GHZアンテナ。
結果的にはそれまでの不満は一挙に解消されたのである。wifi操縦での遅延は2.4GHZでの操縦で機敏に反応するし、何よりFPV伝送距離が驚異的に伸びたことである。極端な話し、伝送画像を見ながら豆粒ほどのドローンを見ずして操縦が可能となったのである。ようやく一つの大きな山を越したとの思いがある。後は操縦感覚を研ぐことで、もっと退屈感のない映像を撮ることが出来るはずで、機材には不足はない、この時点ではの限定ではあるが。。

困ったことに九月の中秋の名月のことを少しは調べてみようという気になり、始めは天体としての月から取り掛かったものの、いつものように対象が派生して、月の漢字(部首)に行き付いたということでこれまで気にもかけて無かった漢字の部首、それも月に限定でこれまで完全無視、じゃなく、同一と見ていたことに反省を込めて、書いてみることにした。むろん、感想はべつにして、ほぼ大部分は調べる
課程で教わったことの受け売りである。
月という漢字はひとつの部首でもあり、大きくは三つの部首名がある。そのまんまの「月」へん、そして身体の部分などを表すときに使う「肉月」、三つめが「舟月」と言われる舟が変化したものだという。
自分を含めて大多数の日本人にあっては、この三種の月を使い分けている者はほぼ皆無ではないかと思うのであるが、むろん反論、異論のある方も少しはおいでるかもしれない。下の漢字をよくよく目を凝らし参照されると気付くことがあるはずだ。こういう自分もこれまで全然気付くことなく、古希が近づくまでまるで頬かむりしていたことになる、恥じ入るほどのことはないものの、知らないってことはこれ以外にも漢字の多さからすると、無数にあるのかもしれない。
月
 上の漢字を見ると其々が微妙に違うことが分かる。で、そんなの聞いてない、学校で習った記憶は全くない、少なくとも自分の頭の中には。ということは、誰もが知らないままに使っていたのではないかと思うほどの違いである。月へん中の横棒が右側で離れたいる、肉月では同じ横棒が両端でくっついている。そして、舟月では横棒は棒ではなく、右下がりの点であることに特徴がある。
公益財団法人日本漢字能力検定協会のサイトを開くと下のような子供向けの解説があった。
漢検博士:ふふふ……ひっかかったね。実は体に関する漢字に多く使われる「月」は「にくづき」といって、空に浮かぶ月とは成り立ちが違うんだ。骨付きの肉から「肉」の字ができて、これが偏になったとき、月と似た形になっただけなんだ。空に浮かぶ月は、三日月の形がもとになっているよ。もともと別の字だから、古い形では「にくづき」は横棒が両端とも縦の画にくっついていて、「つき」は右側が縦の画にくっついていないんだよ。今はどちらも同じ形になって、辞書によってはすべて「つき」でまとめているものもあるくらいだから、混乱するよね。
いずれにしても、月という漢字は象形文字であるものの、この漢字の元が三日月とか肉から変化したものであると推測するのはほぼ不可能ではないのか。さらに、
漢検博士:「廟」や「兪」という字の中にあるね。これらの字では厳密には部首ではないけど、「月」にはもう一つ、「舟」からできた「ふなづき」というのがあるんだ。「朝」や「服」は、もともとの字は「⺼」なんだよ。舟との関係もわかりにくいけれど、違う仲間なんだということは覚えておいてほしいな。
この舟月に至っては、解説もほぼ投げやりで、これも舟との関連性を推測するのは無理であろう。

ここしばらくは中秋の名月なんてじっくりと観たことが無いように思う。こうして少しは気に掛けて今夜は一日遅れとはいえ、観察できるのじゃないかと思って天気予報を見ると半分ぐらいの可能性がありそうだ。まだまだチャンスが残されている、前向きにとらえるられる自分はおめでたいのか?





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