1968年、この年の4月に関西圏の私学に何とか入学したのであるが、当時在住の香川県のZ市から兵庫県のN市への交通のことを思い出す。
この前年には山陽新幹線の工事が本格化し、岡山から神戸までの車窓からは山陽本線にそって高架部分の橋脚工事、河川を跨ぐ鉄橋、駅舎とか130kmぐらいの区間は槌音が響き新大阪から岡山への開業へ向けてまるで突貫工事のような様相だったのを覚えている。旧国鉄の宇野線は単線ではあったが、四国から乗り込むと静かな電車、その8輌もの編成の長さの急行「鷲羽号」に感心したものである。宇野から岡山まで20kmぐらいであるが、児島湾という干拓地を大きく迂回し、40km弱の遠回りな路線を取ることになっていた。鷲羽号は宇野線から山陽本線に合流し、途中相生、姫路、明石などを経て神戸に至る、乗り換えなしであった。
現在では「瀬戸大橋線」が坂出から瀬戸大橋経由で児島まで新線が開通しているものの、高松から岡山へ行くにはこれも随分と迂回を余儀なくされている。
さて、「瀬戸大橋」が1988年4月に開通したことでそのとばっちりを受けたのが旧国鉄の「宇高連絡線(船)」である。本州から四国へ鉄道で乗り入れるとする場合には必ずこの連絡線を利用することになる。在学中には年間何度か往復利用する機会があったが、高松から宇野まで航路距離は20km弱、航程は約一時間ほどであった。この航路を利用するにあたり強く残っている出来事がある。それは大学受験を終えて三宮からの帰路、鷲羽号は濃霧で何度も遅延を繰り返し、最後は岡山駅で打ち切りとなった。さあ、途方に暮れてどうしようかと思案中に声を掛けてくれた親切な夫婦がいたのである。彼らは息子さんを駅まで迎えに来ていたようすであった。不憫に思われたのか、今晩は自宅で泊まることを奨めてくれたのである。地獄に仏、岡山市郊外の茶屋町だったか、妹尾(せのう)だったかは忘れたが、車は30分ほど走り瀟洒なお宅へ到着し、厚く温かい布団が用意されており、翌朝は美味しい朝食まで頂き、駅まで送って頂いたのを覚えている。半世紀もの昔のこと今となっては苗字も忘れてしまったが、ご恩は忘れることはできない。後日、お宅に迂闊にも学生帽を忘れてしまい、それで面倒を掛けたことは恥じ入るばかりであった。
宇高連絡船は昭和30年5月に「紫雲丸」が国鉄史上で最悪とも言える事故を起こし多数の修学旅行生が犠牲になった。この事故を契機に「瀬戸大橋」計画が具体化したのである。のどかな瀬戸内海の高松港沖を通過するたびにどうしてこんなところでと思うことがあった。先に書いた予期せぬ妹尾での宿泊も瀬戸内海での季節的な濃霧が影響していたのであった。
旧高松港から予讃線の急行に乗車するには300mぐらいを駆ける必要があった。それは座席を確保するためで、大きな荷物を抱えて階段の上がり下がりは大変な苦労があったと思い出す。ただ、讃岐丸、阿波丸、伊予丸だったか忘れたが、往復乗船する時に、後部デッキには「さぬきうどん」コーナーがあり、束の間の名物に舌鼓を打つことができたことも大きな思い出のひとつである。
讃岐丸
阿波丸
伊予丸
土佐丸
この前年には山陽新幹線の工事が本格化し、岡山から神戸までの車窓からは山陽本線にそって高架部分の橋脚工事、河川を跨ぐ鉄橋、駅舎とか130kmぐらいの区間は槌音が響き新大阪から岡山への開業へ向けてまるで突貫工事のような様相だったのを覚えている。旧国鉄の宇野線は単線ではあったが、四国から乗り込むと静かな電車、その8輌もの編成の長さの急行「鷲羽号」に感心したものである。宇野から岡山まで20kmぐらいであるが、児島湾という干拓地を大きく迂回し、40km弱の遠回りな路線を取ることになっていた。鷲羽号は宇野線から山陽本線に合流し、途中相生、姫路、明石などを経て神戸に至る、乗り換えなしであった。
現在では「瀬戸大橋線」が坂出から瀬戸大橋経由で児島まで新線が開通しているものの、高松から岡山へ行くにはこれも随分と迂回を余儀なくされている。
さて、「瀬戸大橋」が1988年4月に開通したことでそのとばっちりを受けたのが旧国鉄の「宇高連絡線(船)」である。本州から四国へ鉄道で乗り入れるとする場合には必ずこの連絡線を利用することになる。在学中には年間何度か往復利用する機会があったが、高松から宇野まで航路距離は20km弱、航程は約一時間ほどであった。この航路を利用するにあたり強く残っている出来事がある。それは大学受験を終えて三宮からの帰路、鷲羽号は濃霧で何度も遅延を繰り返し、最後は岡山駅で打ち切りとなった。さあ、途方に暮れてどうしようかと思案中に声を掛けてくれた親切な夫婦がいたのである。彼らは息子さんを駅まで迎えに来ていたようすであった。不憫に思われたのか、今晩は自宅で泊まることを奨めてくれたのである。地獄に仏、岡山市郊外の茶屋町だったか、妹尾(せのう)だったかは忘れたが、車は30分ほど走り瀟洒なお宅へ到着し、厚く温かい布団が用意されており、翌朝は美味しい朝食まで頂き、駅まで送って頂いたのを覚えている。半世紀もの昔のこと今となっては苗字も忘れてしまったが、ご恩は忘れることはできない。後日、お宅に迂闊にも学生帽を忘れてしまい、それで面倒を掛けたことは恥じ入るばかりであった。
宇高連絡船は昭和30年5月に「紫雲丸」が国鉄史上で最悪とも言える事故を起こし多数の修学旅行生が犠牲になった。この事故を契機に「瀬戸大橋」計画が具体化したのである。のどかな瀬戸内海の高松港沖を通過するたびにどうしてこんなところでと思うことがあった。先に書いた予期せぬ妹尾での宿泊も瀬戸内海での季節的な濃霧が影響していたのであった。
旧高松港から予讃線の急行に乗車するには300mぐらいを駆ける必要があった。それは座席を確保するためで、大きな荷物を抱えて階段の上がり下がりは大変な苦労があったと思い出す。ただ、讃岐丸、阿波丸、伊予丸だったか忘れたが、往復乗船する時に、後部デッキには「さぬきうどん」コーナーがあり、束の間の名物に舌鼓を打つことができたことも大きな思い出のひとつである。
讃岐丸
阿波丸
伊予丸
土佐丸