Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

2018年07月

1968年、この年の4月に関西圏の私学に何とか入学したのであるが、当時在住の香川県のZ市から兵庫県のN市への交通のことを思い出す。
この前年には山陽新幹線の工事が本格化し、岡山から神戸までの車窓からは山陽本線にそって高架部分の橋脚工事、河川を跨ぐ鉄橋、駅舎とか130kmぐらいの区間は槌音が響き新大阪から岡山への開業へ向けてまるで突貫工事のような様相だったのを覚えている。旧国鉄の宇野線は単線ではあったが、四国から乗り込むと静かな電車、その8輌もの編成の長さの急行「鷲羽号」に感心したものである。宇野から岡山まで20kmぐらいであるが、児島湾という干拓地を大きく迂回し、40km弱の遠回りな路線を取ることになっていた。鷲羽号は宇野線から山陽本線に合流し、途中相生、姫路、明石などを経て神戸に至る、乗り換えなしであった。
現在では「瀬戸大橋線」が坂出から瀬戸大橋経由で児島まで新線が開通しているものの、高松から岡山へ行くにはこれも随分と迂回を余儀なくされている。
さて、「瀬戸大橋」が1988年4月に開通したことでそのとばっちりを受けたのが旧国鉄の「宇高連絡線(船)」である。本州から四国へ鉄道で乗り入れるとする場合には必ずこの連絡線を利用することになる。在学中には年間何度か往復利用する機会があったが、高松から宇野まで航路距離は20km弱、航程は約一時間ほどであった。この航路を利用するにあたり強く残っている出来事がある。それは大学受験を終えて三宮からの帰路、鷲羽号は濃霧で何度も遅延を繰り返し、最後は岡山駅で打ち切りとなった。さあ、途方に暮れてどうしようかと思案中に声を掛けてくれた親切な夫婦がいたのである。彼らは息子さんを駅まで迎えに来ていたようすであった。不憫に思われたのか、今晩は自宅で泊まることを奨めてくれたのである。地獄に仏、岡山市郊外の茶屋町だったか、妹尾(せのう)だったかは忘れたが、車は30分ほど走り瀟洒なお宅へ到着し、厚く温かい布団が用意されており、翌朝は美味しい朝食まで頂き、駅まで送って頂いたのを覚えている。半世紀もの昔のこと今となっては苗字も忘れてしまったが、ご恩は忘れることはできない。後日、お宅に迂闊にも学生帽を忘れてしまい、それで面倒を掛けたことは恥じ入るばかりであった。
宇高連絡船は昭和30年5月に「紫雲丸」が国鉄史上で最悪とも言える事故を起こし多数の修学旅行生が犠牲になった。この事故を契機に「瀬戸大橋」計画が具体化したのである。のどかな瀬戸内海の高松港沖を通過するたびにどうしてこんなところでと思うことがあった。先に書いた予期せぬ妹尾での宿泊も瀬戸内海での季節的な濃霧が影響していたのであった。
旧高松港から予讃線の急行に乗車するには300mぐらいを駆ける必要があった。それは座席を確保するためで、大きな荷物を抱えて階段の上がり下がりは大変な苦労があったと思い出す。ただ、讃岐丸、阿波丸、伊予丸だったか忘れたが、往復乗船する時に、後部デッキには「さぬきうどん」コーナーがあり、束の間の名物に舌鼓を打つことができたことも大きな思い出のひとつである。
さぬき丸
讃岐丸
阿波丸
阿波丸
伊予丸
伊予丸
土佐丸
土佐丸




















先の豪雨災害のインパクトが大きかっただけに、今回の12号台風に対する予防は想像を越えるほどの対策がなされたのではないかと。ラジオは何度も中断されて避難指示、避難勧告など次から次へ報じられているものの、外の景色はどんなものかと目を遣っても、大したことないじゃないかと思える程度のもの。
各自治体の防災体制に行き過ぎということはないと思うけど、やや過剰ではないかと思われる節もあるように思えたのだが、どうだろ?後で突っ込まれるのなら、少しオーバーでも避難何とか出すに越したことはない。そんな感覚だったのだとしたら、大きな罪作りであると思う。オオカミ少年の逸話の通りで、ああ、又かとなってしまう。動きの悪い高齢者や障害者にとっては空振りに終わる避難が及ぼす身体的な影響は想像を絶するほどあるはずで、自己避難ができないとなると、介助を頼むことになるし、遠慮が先立ち、ついには自宅避難を決め込むことになってしまうと思う。専門性のほとんど無いと思われる自治体職員が判断するには酷ではあると思うけど、この辺りに問題の核心があるのではなかろうか。
12号台風はさぬきにおいては、その爪痕は皆無であったと思う。避難指示が出された地域もあったようであるが、その後の報道はないので無事平穏だったのだろう。三重県に上陸、このこと自体が珍しいのであるが、その後近畿から瀬戸内沿岸の兵庫、岡山、広島、山口そして周防灘へ抜け福岡上陸という珍奇なコースを辿ったという。自分の知る限りでは今まで一度もない進行方向である。中緯度の日本列島上空はジェット気流が西から東へ流れることから、通常ならばそれに押されて鹿児島辺りまで北上した台風は東へ転進するものである。今回は日本海側に強い高気圧が居座り、その周辺を回り込むという形を摂ったということらしいが、普通のコースをとる場合には台風の渦が左回り、つまり反時計回りとなることで進行方向の左側において風圧が高くなり強風被害が発生し易いということになる。が、今回はラジオの予報官も経験のない動きをしているので、予報を立て辛いと何度も言ってたのを聞いたのである。概して風害は相殺されてそれほど大きくならなかったはずである。
半世紀を越える人生を歩んできたら、このような半世紀に一度あるかないかの体験をすることもできるという、貴重で稀な気象現象にも出会えるということなのか、なんとも素敵なプレゼントであった。
台風12号
 台風12号
それにしても予報円はほぼ正確、現在地(29日20時)は久留米辺り。このまま西進すると、黄海から大陸の上海辺りへ上陸するのだろうか。

7月20日の未明、家を出て五色台からの日の出の空撮を狙い大崎山展望所へ向かう。およそ30分で到着した。嘴太カラスがたむろしているだけの閑散とした駐車場。風も殆んどなく、飛行日和とはこのことか。が、視界がすこぶる不鮮明であるが、これはこれで風情があると思う(自己満足だけど)。動画撮影は順調に収録されているものの、スティックの操作の度に機体が大きく揺れる、この繰り返しはまだ操作に不慣れなため、移動回転の度にスティック操作で確認しているためである。機体にはヘッドレスという機能があり、機体がどういう方向を向いていてもスティック操作の通りに機体が前後進、左右、上下するという便利なものである。上空でそれを確認できるのは、機体の四本の脚の前後のLEDの色で判別するのである。機体の前方は二個の青色のLED、後方は同じく赤色のLEDが常時点灯していることで確認することになる。
理論的、机上では分かっていても、いざフィールドとなるとそうはいかない。この機体は基本、スティックが中立であればその場でホバリング状態になるので、慌ててドキマギすることはないのであるが、何回も同じことを繰り返している。一体これまで十数回の飛行練習は身についているのかいないのか、甚だ疑問に思えるほどの体たらくである。その理由言い訳のひとつは動画映像を撮りたいということに尽きそうである。ただ、飛行習熟の練習に専念するのが先だろが!!。恐らくそういうことで間違いなさそうだ。といいながら、また同じようなことを繰り返しそうな自分がある。情けないけど。
不鮮明な空撮動画となったが、何度も言うけど、これはそれなりに風情がある、と思うのだがどうだろ?

台風12号の進路予想が未経験ということで、不気味である。このまま予想円に沿うとなれば7月上旬の西日本豪雨の被災地は大変なことになりそうである。
今年の気象は異常尽くし、その兆候は年の初めに既に現れていたと思う。昨年秋からの異常気象で冬の鍋料理に欠かせない葉物野菜は平年の二倍三倍の高値を続け、三月になって漸く新野菜が出始めたものの、サクラの開花はすでに三月末を迎える頃には四国の瀬戸内沿岸でも満開となっていたのを思い出す。異常気象というほどのことはない、やや平年値から前後したぐらいじゃないかと、高をくくっていたのであるが、その後五月の下旬の梅雨入り、そしてまだ復興作業の続く「平成30年7月豪雨」その直後には梅雨明けと、やはり異常ではないかと思わずにはいられないような気象の連続である。
そして、この12号台風の出現にはたまげたことである。反時計回りの進路が意味することは、予想進路の南側ではとてつもない強風が吹くのではなかろうか。むろん、太平洋の湿った空気を呼び込み大雨をもたらすことも多分に有り得るだろう。
半世紀を思い出すに、小生の小学高学年のころだったろうか、8月の夏休みに郷里の今治のH町に滞在中にこのような進路をとった台風のせいで、帰るのが大幅に遅れたことがあった。つまり、偏西風に逆らう形の進路をとることで速度が遅くなる傾向があり、強風大雨の続く時間が長くなりそうであるということではなかろうか。
ここ三十年ほど前からは気象観測衛星のおかげで、ラジオゾンデを上げたり、富士山測候所も必要なくなったり、時々刻々の台風の動きが遥か上空から監視できるということもあり台風予測は比較にならないほどの正確さで予想されているのである。ただし、予想はできても、台風そのものの脅威を低減させることはできない、準備万端怠りなければ、最新科学技術も「猫に小判」となるのであろう。
台風12号
7月27日最新の進路予想。
台風12号予想
四国では29日日曜日の午前中が12号台風のピークとなっている。
先にも書いたが、この予想は半日もしくは一日以上先にずれるのではないかと思う。いずれにしても、影響は避けがたい。

7月23日にドローン喪失の件、続報として書いてみることにした。
22日日曜日の午後「香東川浄化センター」敷地内東端の本津川にほど近い場所から離陸させたH501A機は突如として行方不明となり、気を落ち着かせようとしたものの、急げとばかりに無暗矢鱈と近辺を一人で探すも徒労に終わった。幸いにも本機から送信されてきた着地点の映像及び位置データが送信機に装着したスマホ(iPhone6)には残っていたのですぐさま画面をキャプチャーして保存しておいた。
S__5218314
着陸時のデータがリアルタイムで保存されているのが分かる。

猛暑の続く中での捜索はとても無理、この先も好天は続きそうだし、付近はひと気も全く無く、仮にデータ通りの位置に機が鎮座していたとしても持ち去りなどの恐れはあり得ないと判断し、その日は帰宅。直ぐにキャプチャー画面をPCに取り込んでGoogleMapにて位置データを入力すると着地点がピンポイントで表示された。操縦位置からは105m、標高5.4mこれだけ分かれば捜索なんていとも簡単と高をくくっていた。そして、翌日息子の手を借りて午前九時半ごろ現地へ向かうも、事前調査済みの位置データ入力にミスがあり、まったく反対の方向を探すこと一時間ほど。見つかるはずはない。
その日は見つからないまま、まだ希望が大きく、落胆の気持ちはほとんどないままであった。再度入力をすると、データ通りの位置に印が出て、希望は大きく膨らんだのである。そして、24日も同時刻に息子の手助けで現地入り。想定外に状況が悪い、葛の蔦が繁茂、雑草、雑木が足の踏み場もない、その上に蜂、虫など蛇も居るに違いないような環境で、一時間で終わるはずの捜索は途中で中止の羽目に。異常に暑い好天の日々が続いているので現地で降雨を見ることは今週いっぱいは無さそうである。機体は電子機器のかたまりでもあり、雨に濡れることは禁物である。何とかせんといかんぜ。
そして、窮余の策発動、人を雇う、いろいろと手段はあるものの、一番早いのが「ジモティ」というSNSサイトである。これは娘に依頼して条件を告げて、早速サイトに載せることとなった。24日の午後7時ごろ、サイト運営側から認証のための時間を要したようであったが、それがサイトに上梓されるとほぼ同時に市内の男性から応募の連絡が入ったらしい。その後は待ち合わせ時間や場所、その他準備品など打合せして、25日の午前九時に会合できた。少し内気な若者26歳、体力的には問題無さそう。直ぐに現場に案内、自分はその場を離れ、発見もしくは異変があれば直ぐに連絡するということで、近くで車内待機をしていると一時間後に電話が入り、発見か!!??と期待で爆発しそうになるも、ど~んと奈落へ。
ドローン着地点3
再入力の結果、着陸地点は赤の印の場所。衛星地図は少し古いので草木はほとんど成長している様子はない、この日の現在地現況は下の写真の通り。
IMG_1008
青年に依頼して捜索開始。

捜索範囲は百坪もない、しかし、やはり、蜂の大群の猛攻の気配で防護服なしにはとても探せないと言う。もう、今の季節での捜索は多勢に頼らない限りは無理だと諦め判断した瞬間であった。
この日の夜、弟君から電話があり、捜索に参加するという。断る理由もなく、26日の午前七時の待ち合わせ、一縷の望みを捨てるわけにはいかない。現地の事情はもう語り尽くしているので、すぐさま現場に入る。完全防備で立ち入るのを下から見ながら、次第に不安が過ることに。百戦錬磨の弟のこと、しかしポイントの尾根の前後二十mほど絨毯捜索するも、影も形も見えない。一時間半ほど、ここでタオルが投げられることに。終了宣言である。
今後は「香東川浄化センター」に遺失物の届け出をするために書類を作成して提出してみるつもりである。個人の趣味(ドローン捜索)のために高松市の職員を動員して草刈りを前倒ししてとのお願いなどできるはずもない。大いに反省、高くついた勉強代となったと思う。( ;∀;)
「空撮」への挑戦を諦めたわけではない、これからも上を目指すつもりだ。懐具合との大いなる闘い(大袈裟な)が目の前にあるけどな。





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