Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

2017年11月

20日ソウル経由で高松入りした知人ご夫妻、29日、今朝早くマリンライナーで岡山、そして新幹線にて小田原から箱根へ入ったとラインで報告があった。今朝の高松はまるで「粉糠雨(こぬかあめ)」遠くの勝賀山も綿菓子のように低く垂れこめた雲によりお隠れである。箱根からの連絡で、てっきり富士山は望めなかったのかと思い、残念じゃなかったのかとの問い合わせに、丸っきり、反対でスッキリした山容が見えたとのこと、日本列島結構広いじゃないか、そんな思いであった。東海道新幹線、富士川から三島辺りにかけてはJR東日本の宣伝ポスターにもあるように上りなら左側の車窓からそれはそれは見事な風景を見せてくれるはずであるが、なかなかそのような光景に恵まれることは珍しく、彼らは五合目まで冠雪した日本の代表的富士の山を見れたなんてよほど運がよかったのかもしれない。日頃の行いが良いからなんていうつもりはない、ただほんの少しの運に出会っただmけなのだろう。
彼らの発った今朝の高松は泣きだしそうな曇天で以後ほぼ一日中小雨、それも細雨が夕方まで降り続いていたと思う。結局外出することなく、エアコンを22℃に設定した部屋の中で過ごし、時折南と西側の窓から屋外に目を遣ると、郷東川の川面はほぼ無風であることからどこまでも滑らか、潮が満ちて対岸まで海の潮で覆われるとカモメや海鵜(うみう)が忙しく飛び交い、潮が引けばカラスやイソシギなども干潟に舞い降りてくるのが見える。ごく稀ではあるが、何度か「白鳥」のツガイらしきものも遊弋しているのも見掛けたことがあった。この白鳥たちはむろん野性であるが、あまりにも讃岐の環境が良いのか、北へ帰ることを忘れてしまったようである。新聞記事にも出てたことがあるので間違い無さそうである。彼らの塒(ねぐら)は近郊の田舎に無数にあるため池のようで、時折汽水域の郷東川の河口付近にも出没するようになったということのようだ。
高松天気
上の絵にも記載あるように、気温の推移は日中は15℃ぐらいであったが、粉糠雨のせいか、湿度は80%もあり、その湿り気で体感は気温以上に冷えるように思える。
直ぐに師走、実に早い、でも去年の今頃、何をしてたのかさえ思い出せない。
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屋島東町「一和堂工芸」にて。

今日11月28日は客人たちの要望もあり、香川県文化会館内の「香川県漆芸研究所」を予約して、午 後1時半から2時間近く研究所の係員の懇切丁寧なご案内のもとにじっくりと作品展示や研究生たちの創作過程を見学した。直前の予約であったので、これほどのご案内を拝することは夢にも思っていなかったので正直なところ感謝感激であった。
漆芸研究所
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地元にありながら、漆芸が盛んであることは承知していたものの、香川の3技法といわれる、蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)という技法があることなぞ、全く存ぜぬことであったのでここを訪問して初めて聞き、驚いたのが偽らざるところである。各技法の詳細な説明については、リンクを貼り付けたので参照することとしたい。
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客人たちは熱心に係員の説明に聞き入り傍観者の自分は会館内の一階の漆芸作品の展示、エレベータ―で六階、五階の研究生の創作景色を写真に収めるだけで精いっぱいであった。係員の説明はむろん日本語であり、それを客人の奥さんが仏語に訳し、客人の仏語の質問を日本語に訳しながら、次々と研究生たちの前を通り過ぎて行っのた。研究生らのほとんどが二十歳代の女子であり、男子はほぼ同年齢の方が二三名ほどいたと思う。異邦人の客人二人は特にそれらの技法が繊細なことに驚きの連続であったようで、何度も何度も質問を係員に投げかけていたのが印象的であった。特にそれそれの技法で使用する特殊な道具類を研究生たちが自分で作品に合うように研いだり、削ったり工程に入る前に準備することに多くの時間を割いているのに目を惹かれたみたいだ。自分には香川の代表的な伝統工芸である「漆芸」の奥の深さを改めて感じさせられた今回の訪問であった。客人たちはむろんこの漆芸に大きな興味があったので、高松を訪れたのを機会に坂出市の「東山魁夷瀬戸内美術館」鑑賞を織り込んだものの、月曜日以降しばらく閉館ということで無念だったがために、ここには大きな期待があったはずである。午前中に天下の名勝「栗林公園」を散策し、園内で軽く昼ごはんを済ませてから余裕を持って臨めたと思う。
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自分を含めて四名全員が一昨日より咽の痛みと咳の感冒に罹っていたので、小生が午前中に別行動をとり、掛り付け医の診察を受けて、適切な処方薬を頂いて午後一時半に栗林公園の東駐車場で待ち合わせて中央公園付近の路上パーキングから「香川県文化会館」の一階の「香川県漆芸研究所」を訪ねたということである。大満足の二時間余り、研究所を辞して、県立高松工芸高校前の「新光工芸」という民間の作品販売店を覗いたりしたが、どれもこれも、これと思う品々は高価でもあり、半時間を掛けて品定めをしたものの、店主にお礼をしてここを辞した。散散ご迷惑を掛けた揚句でも、店主の「又のお出でをお待ちしています」の一声、これには客人二人驚きを隠せなかったようであった。

11月27日、本日の予定が突然のキャンセル、といっても事前調査不足が原因であった。坂出市番の洲の「東山魁夷瀬戸内美術館」での現代アートの見学は、何と月曜日は閉館日だと知り、成すすべなく急遽変更したのである。行き先は松山自動車道から高知自動車道を経て高知市の「桂浜」でただ太平洋を見ようということになった。時間の余裕があれば、足を西に延ばしていの市の「紙の博物館」も見ようかと随分欲張りな行程をたてて、客人ら三人を乗せて午前十時半に高松を発った。高松西ICから西へ60km余りで高知自動車道に分岐し、立川PAにて小休憩。
立川PA

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立川PAにてのショット。モミジの紅葉は盛りを過ぎていたかも。。。
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桂浜
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桂浜の駐車場には12時半過ぎに到着、目指すは「坂本竜馬」の銅像である。正面右肩のすぐ傍で足場を上り竜馬の目線と一にして見られるはずだったが、何と、足場は解体中で、昨日日曜日で終了したとのこと、あくまでもついてない月曜日である。
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桂浜公園から高知新港に停泊する巨大なクルーズ船が見える。恐らくこの船客と思しき一団が下の「ひろめ市場」に押しよせているのではないかとの推測どおり、彼らに遭遇することになった。
ひろめ市場
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午後一時半ころ「ひろめ市場」に立つ。月曜日にも拘わらず押し合いするほど盛況ぶり、聞こえてくるのはむろん、中国語である。喧しいのは相変わらず、いつもの通りである。
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「ひろめ市場」で海鮮料理を頂き、満腹状態で、午後三時近く、市場を後にしたものの、いの市の「紙の博物館」はここも月曜閉館、あくまでもついてない、踵を返し、国道32号線で大歩危渓谷を帰路途中で見ることにした。
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国道32号線沿い、徳島県境に入り、午後五時過ぎ「大歩危峡」で一休み、谷あいはすっかり日が暮れ、冷たそうな渓流の深い青緑の流れが冬の気配を運んでいた。
午後六時半過ぎには高松中央ICに至り、走行距離往復で270kmの土佐訪問を終えた。欲張りそ過ぎたかもしれない、四国高知の旅、昨日の直島の曇天模様は、立川を過ぎるころからは次第に青空も顔を出し、桂浜では20℃ぐらいまで上がった気温で汗ばむほど。高知湾から見渡す太平洋は穏やかそのもの、中身の濃いいちにちを過せたと思う。


今日は朝から客人らの要望もあり、直島の「地中美術館」の見学に。事前の調査ではこの美術館のごく近辺に「李禹煥美術館」というのが開館しているので、ここも候補に入れてみることにした。客人のひとりは前夜は京都から岡山へ、そこで一泊の後、午前の早いJR瀬戸大橋線のマリンライナーで高松入りし、駅前にて合流、午前十時過ぎの四国汽船の「なおしま丸」にて一時間足らずで直島の宮浦港に到着、下船後一同四名にて車にて直ぐに「地中美術館」を目指した。
実は小生、2005年のゴールデンウィークの一日をここで過ごしたことがあった。実に12年ぶりの再訪となった。当時、フェリーを利用したことまでは覚えているものの、どのようにして宮浦港からここに至ったのかを忘れてしまっているのだ。ただ、快晴の春の日差しを受けて、長姉とその姪っ子や子供二人を交えて何故か美術鑑賞という思い出が全くないのである。全く「花より団子」だったのかもしれない。
直島地中美術館
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高松港から乗船したフェリーなおしま丸が接岸する。

今回は美術に造詣の深いお方もいることで、少しは緊張感を持っての来訪である。
「地中美術館」の建造物自体は著名な建築家「安藤忠雄」氏の作品であり、常設展示としては三人の外国人芸術家の作品だけという特異なものである。彼らは「ウォルター・デ・マリア」、「ジェームス・タレル」、「クロード・モネ」の三名である。中学校の美術で習ったのはこの中で「モネ」だけであり、他の二名については正直なところ、初耳であった。施設自体は岡山に本部のある教育関連財団の「公益財団法人福武財団」(ベネッセ)が2004年に設立したもののようである。小生の初見はその翌年であったようである(恥ずかしながら全く存知あげない経緯である)。
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「地中美術館」の文字が打ち放しのコンクリート壁に標されている。
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高さ6mの打ち放しコンクリート壁に囲まれた50mほどの通路の先に受付がある。
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「李禹煥(リー・ウーフン)美術館」の屋外展示のオブジェ。
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同上。
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「李禹煥美術館」へ続く遊歩道。
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直島町役場庁舎。客人たちのと待合わせ場所とした。
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同上。
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庁舎付近で見かけた「皇帝ダリア?」。

忌憚のないごく一般的な意見を述べてみようと思う。これも、ほぼ美術に関しての知識も関心もないものの感想であることを初めに断っておかなければならない。
多少は建築に知識があること(謙遜あり)から、どうしても建築の技術的な面に目が届き易くなっていることは否めない。建造物全体が「コンクリート打ち放し」という構造=仕上となっており、コンクリート打設が完了し、その型枠が取り外された瞬間に出来の善し悪しが決まるという非常に恐ろしいとも言える工法を用いているのである。山の斜面を一旦掘削して土砂を取り除き、建築後に埋め戻すということから、地中のその大部分が埋没した形になっており、遠くから見ると頭頂部だけが見えるだけである。この安藤忠雄氏の設計になる「地中美術館」はそうしたことから、内部の仕上がりにこそその見事さが表現されているのであり、是非とも入館料を支払ってでも地中に潜らねばその価値を計ることはできないのである。この日(訪問時の11月26日)は生憎の曇天だったので、太陽光が最後まで館内に差し込むことがなく、陰影の妙を垣間見ることができなったので、人工光線だけがその価値を醸していたのは少々残念なことではあった。凡そ二時間ほどで見学を終えて、一旦昼食を摂った後に地中美術館から一キロほど東にある「李禹煥美術館」にも足を延ばした。入口の係員に無理をお願いして、正門前に堂々と駐車することができたのは幸いであった。そこから徒歩で数百メートルで施設に到着する。ここも当然有料である。この施設は安藤忠雄氏と李禹煥氏とのコラボとして建設されたようで、2010年の「瀬戸内国際芸術祭」に合わせて開館したということである。コンセプトは地中美術館とほぼ同様のようである。正直、コンクリート打ち放し工法の半地下構造など見分けはほとんど素人には付かないのである。小生の好みとしては、李禹煥美術館に軍配を挙げたいと思った。両美術館とも館内の写真撮影は禁止とされていたので、一枚もその写真がないのは残念。(が、GoogleMapには個人が画像をアップしているのである。)
晩秋の直島の南端の小高い丘に建設された施設群、日曜日でもあり、そこそこの見学者が見られた。特に目を惹いたのは外国人と思しき人たちである。明らかな欧米人、それにアジア圏の人たちなど老若男女、幅広い見学者が瀬戸内の小さな直島に詰めかける姿には驚かされた。











ウォルター・デ・マリア





弟の在住するZ〇寺市の境内地の近くに古くからある(?)老舗の御菓子屋さん、改めてその店構えに懐古の気持ちを掻き立てられたのでその感想を書いてみようと思う。
熊岡菓子店
11月下旬のとある日、冷たい秋時雨の中、外国からの訪問客人を案内がてら、このお店を訪ねてみたのであるが、小生はこのお店は小学生の頃から知っており、同級生の女の子もここが自宅兼店舗であったから全く見知らぬお店ということはなかった。それはもう半世紀以上も前のことであり、時折弟宅を訪ねることがあればここで名物の「空豆煎餅」をお土産にしたり、自家消費用に購入したり、何十回となくここを訪ねたことがあった。それでも、この日、普段は多くの参拝者や観光客で賑わうはずのお店は閑散としており、お店の若奥さんと会話することもできた、こんなことは初めてであった。余りにも有名になったのか、二年ぐらい前から二軒ほど離れて、更地となった空き地に専用駐車場ができたようで、慌ただしく買物する心配もなく、じっくりと店構えを観察できた。
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右側が「熊岡菓子店」。道路は南行きの一方通行である。写真は北方角を見たものである。

基本的にはほとんどのお菓子類は量り売りである。100gがいくらという単位である。豆煎餅はというと、100gで九枚から十枚ぐらいだという説明を受けた。100gが200円との表示があり、200gの購入を申し出た。何もかもがレトロな造りであり、頑固にそのスタイルを守っているのが自然に分かる。製造販売を一貫しているようで、古くは旧陸軍御用達とのことで、お菓子を詰める紙袋には五重塔などとともに簡単な謂れも印刷されている。これらの菓子類は湿気に弱いので、紙袋は更にビニール袋に包まれてから手渡されるのである。軍隊御用達で一番印象的な菓子?としては「堅パン」であろうか。これは乾燥した焼き菓子であり、恐らく主食を取ることのできない余裕のない場合の非常食として当時珍重されていたのであろう。これらは今日でも自然災害非常時には日持ちもすることから、代用食として大いに役立つに違いなさそうだ。
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白の染め抜きの暖簾「カタパン」。
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木製柱が邪魔じゃないのかどうかは問題ではない。奥の一斗缶には菓子が詰め込まれているみたいだ。
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アイスクリーム冷蔵ケースと欧米人の誰かのポスターはさすがにここでは異色を放っているようだ。

ほとんどの菓子類は木製のガラス蓋のケースの中にあり、中にはアルミ蓋のついたガラス瓶の中に収められているものもある。店内には足を踏み込める構造ではなく、客は道路側から指差しするか、口頭で品々の注文をする、それを若奥さんが計りに載せて、少しだけ過量の範囲内で計量し(ここに商売の奥義が隠されているのかもしれない)、紙袋に詰め込むのである。今回は客がほとんど見かけられず、いち部始終を観察することができた。昨今の店舗での販売スタイルからかけ離れた様子は興味深々であった。さすがに若奥さんのスタイルは洋服姿であったが、ずっと以前には割烹着のスタイルの女将さんが応対してくれていたような気がする。
何もかもが変わってしまった古い家並のなかで、このような店舗が依然として残されているのは本当に稀有貴重なことであり、この先も新しい世代が引き継いでくれたら、これからも観光資源にもなるのに大きく寄与すると思うのだが、皆が皆そう思うかどうかは分からない、もっと現代に即し合理的にという意見も聞くことがあるから。

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