Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

2015年12月

一年を振り返ると、ひとつの節目が2月に96歳で逝った母のこと。二つ目はやはり自身の体調のことだろうか。
術後の経過は予想に反して、徐々に進行している、のが自覚でき、気が重い。
そのような重い気分を晴らすために、4から5月にかけて、「インドネシア スマトラの旅」を決行し、8から9月にかけて「インドシナ5カ国」を知人を同行して訪問した。二回もの大きな旅をしたことが決定的な残像を残した一年であった。

去年までと違うのは、ブログを上梓し始めたことで、日々の自分がどこで、何を考えていたのかなどが分かるようになったことだ。ある意味では「終活的要素」が大いにあっても仕方ないかも。
さて、ブログではこの一年間に閲覧していただいた訪問者数は5000人ほど、対する投稿回数は430回ほどである。ブログは「日記」でもあるので、誰かにご覧頂こうなどとのつもりはないが、正確さや誤謬を期すためにも、うろ覚えで書き込むことはしないように心掛けた。ほとんどがネット上で検索したり、ニュースのネタ元は「コピペ」という禁じ手も使うこともある。できるだけ幅広いテーマを取り上げたいと思っても、えてして関心事は「事件事故」「乗り物全般」「近隣諸国」「旅行」「地球と宇宙」「自然風景」に集中しているのが分かる。どの分野も調べれば調べるほどに奥の深さに圧倒され、身の程知らずのテーマに挑み果てるという醜態は無数にあったのではないかと反省しているふりはするけど。

年明けには、インドネシアのパプアニューギニアへ旅立つつもりだ。行程はひと月を限度として、ジャワのスラバヤを基点にして「PELNI」という内国民用の貨客船に乗り、スラウェシ、マルク諸島から西パプアを経由してイリアンジャヤのジャヤプラまで5泊6日の長~い船旅を体験するつもりだ。乗船中、途中寄航中、下船後の情報が定かではないので、環境さえ整えば、現地当日情報をこのブログに上梓したいと思っているところだ。この歳だから無理はしない、ただ、現地の空気さえ吸えればぐらいの気持ちだ。


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スラバヤ港停泊中のPELNI(国営フェリー公社)のLAMBELU号
写真はYahoo画像を引用した。


 

45年ほど前に横浜から当時の極東のソ連の港町「ナホトカ」へ上陸し、シベリアから中央アジアのソ連領内のハバロフスク、ノボシビルスク、アルマ・アタ、タシケントを経由してグルジアのトビリシまで共産ソ連を旅したことがあった。1973年春のソ連はまだ車窓、機窓から白く覆われた地表があらわなところもあった。それにしてもこの大国がどうしてこれほどまでに消費物資不足なのか、現実に体験して、驚いたことがあった。インツーリストのホテルでも駅の車掌にも、時には一般市民にも、チューンガムに始まり、はいてたジーンズ、むろんドル札も、物々交換できるか尋ねられたからである。一見外観など立派に見える建造物も交通機関も当時の日本のレベルと比較しても、粗末、荒っぽさが目立っていたのを覚えている。宿泊してたホテルのバスタブには「栓」が持ち去られ、トイレットペーパーはまるで新聞紙のよう(あればの話だが)、ドアの建付けは狂い、バルコンの手すりの溶接がぎこちなく、どうしてこの大国が・・・の思いがあった。別にソ連をロシアをけなすつもりはない。文学や芸術(舞踊、音楽)、先端科学などなど、父から聞いたことのあった「ソ連軍」の蛮行からはとても想像できないような文化を誇るソ連・ロシアとは間逆な世界が眼前に展開されていたからである。
19世紀以降のロシア・ソ連は周辺諸国と戦乱に次ぐ戦乱に巻き込まれ(巻き込んだ)戦死戦傷者数は日本の大東亜戦争、太平洋戦争のそれとは比較にならないほどである。とてつもないほどの長さの国境線で接する国々とは「紛争」「戦争」も数限りなく、1919年の革命後も常にどこかで東西南で戦火をあげてたということだ。
今更ながら思うこと、それはあの高貴で格調高い芸術を生み出した同じロシア人がこのような戦争を敢えて好んで仕掛けるのか、とてつもないほどの犠牲を払いながらも広大な国土をこれ以上拡大させる必要があったのだろうか。
ロシアはロシア人だけで構成されているわけではない。これだけ国土が広いと一人種だけで成り立つことなどはあり得ないということだ。つまり、多民族国家の典型である。現在においてもいわゆる大国といわれる、アメリカ合衆国(名称そのものが示している)、中華人民共和国は多民族で構成されている。ただ、アメリカは15世紀以降、欧州からの移民に始まり、ラテン国家、アジア、アフリカからの移民という形で構成されており、土地をもたない民衆が新天地を求めたという違いがある。また、中国は周辺の既存の弱小国家を強引に併合したのである。いくら情報化社会とはいえ、これだけの多民族、多言語を統一し、国家としての形を維持するのはどうも無理がありそうな気配が見えつつある。
土地や風土が民の心を創るということは間違いないと思う。シリア情勢の不安定さや、経済格差からのアフリカなどからの欧州への「難民・移民」の流入がつづき大きな話題となった。生れた土地から新天地を目指す彼らがこの先、在来住民との間で軋轢を生むのは目に見える。
まだまだ国際情勢は不安定であり、とくにプーチン大統領のもと、ロシアの復活に向けての動きが不気味である。
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どうして現在、自分が置かれている地球上の環境があるんだろうか?
坂出の五色台の峰々から、城山頂上から見渡す度にこの不思議な感情が自然と沸きあがるのだ。普通に生活してる時にはこのような思いをすることはないのに。
五色台の瀬戸内海を展望できる箇所からは、遠く小豆島の地蔵崎、屋島、八栗の峰も見渡せる。太古の昔から、古人たちもこのような景色を眺めてたんだろうか?との感情が沸いても不思議ではなかろう。そして、この風景、景観が今と変わらず、それぞれのあるべき位置にこのような姿があったのだろうか?
千年単位では大きな変化はないかもしれないけど、それでも、瀬戸内海の海水面の変化は顕著であったようで、多くの島々が陸続きとなってたと、地球物理学での研究成果が示しているようだ。また、万年単位ともなると、何度も繰り返された氷河期の影響が地球全体に及び、海水面の低下で日本列島が大陸と地続きとなり、人も絶滅したといわれる「ナウマン像」もこの日本列島で生息していたという証拠も発見されている。
さらに百万年単位となると、地球の地殻変動などの影響も何度もあったはずで、日本列島もこの時代に形成されたとの研究もあるようだ。地球外からの隕石や彗星の衝突なども、確率的には大いにあり得るし、それが人類誕生の起因と言われても不思議ではないほどの時の流れの長さがある。
2011年3月11日の「東日本大震災」は千年に一度といわれるほどの規模だったことが判明している。ということは万年に一度、百万年に一度といわれてもおかしくないほどの天災があったに違いなく、規模も影響範囲も桁違いであったとしてもおかしくはない。
今の環境は、地球の長い歴史からすると、穏やかな一瞬に過ぎないということ。いずれはこの地球にも大きな変動があるはずで、その時果たして人類がその環境の劇的変化に応ずることができるかどうか、非常に希な確率でしか保証出来ない、としたら、人類は滅亡するしかないということであり、もう、考えない方が精神衛生上、宜しいのかもしれない。
ジュラ紀
ジュラ紀の7千年前ころに、直径2kmほどの巨大隕石が南米のユカタン半島付近に衝突したことが、当時謳歌してた巨大生物「恐竜」たちを絶滅に追い込んだことは確実な証拠が残されており、これを機に次第に陰に隠れてひっそりと生活していた人類の祖先といわれる、哺乳類がしだいに台頭してきたらしいのだ。驚くべきことは、環境に適応できさえすれば大きさや強さに関係なく、「繁栄」が約束されているということが地球上ではそれが今までのところは証明されているという事実に驚かされる。人類の歴史といっても、ほんの数十万年ぐらいしかない、まして、宇宙の歴史ともなると、風前の灯みたいなものである。現在の人類の繁栄なんてものも、いつの日にか瞬時に若しくはじわりじわりと滅亡に向かっていることはほぼ間違いないのではなかろうか。
「東南海トラフ大地震」がこの三十年のタームで発生する可能性が発信されているようだが、「こんなもんじゃない 」というのが自分の描く近未来の姿である。
ユカタン半島
 Yahoo画像を引用した。

タンゴといえば、そのリズムが軽快でなじみ易いことで、もう40年以上にわたり、常に自分の「お気に入り」の分野の音楽である。「コンチネンタルタンゴ」と「アルゼンチンタンゴ」に分類されるようだが、いずれも、南米アルゼンチンを起源とするものである。このように二つのスタイルがあるのだが、一番の違いは演奏楽器によるとされている。アルゼンチンタンゴではそのメイン演奏楽器として「バンドネオン」が用いられ、コンチネンタルタンゴでは「アコーディオン」が用いられることが特徴で、編成も管弦楽団と規模も大きくなるケースが多い。
日本人歌手として、「菅原洋一」「芦野宏」「岸洋子」が「紅白歌合戦」でタンゴを披露したことでも知られている。
日本での知られたタンゴの名曲は結構あり、「黒猫のタンゴ」「碧空」「夜のタンゴ」「真珠採り」「小雨降る径」などなど多くの日本人にも馴染み深く、その末席に自分がいるかもしれない。
聞き初めは姉のLPレコードであったと思う。当時昭和35年ころ出始めた珍しい「ステレオ」で33回転で回すまん丸な30cmレコードの中の一枚がアルフレッド・ハウゼ楽団のタンゴ名曲集だったと記憶している。何度も何度も聞くとなると耳の中に深く沁みこみ、今に至るまでその当時の風情が聴くたびに思い出される。小気味良さと哀愁がタンゴの真髄であろう。

著作権の絡みもあり、アルフレッド・ハウゼ楽団の演奏をYouTubeで公開できないかもしれないのでご承知おかれたし。

昨日の日韓間の局長会談に続き本日の外相会談には強く関心をもってその結果を聞いた。
合意した中身の要旨は次のとおりだ。

①「慰安婦」に関しては日本政府は10億円程度の基金を一括して提供し、直ちに行動にうつす。
②「少女像」に関しては韓国政府は関連民間団体との折衝を通じて日本大使館前からの撤去に努力する。
③これらが最終的かつ不可逆的なものとして確認した。

責任を痛感しているとした日本政府の「謝罪」については、詳細は記者発表ではわからないが、日本側も韓国側もお互いにWinWinとなったのかは、これからの行動で分かることだろう。
特に、②については、韓国政府側は適切に努力するとの表明であることから、関連団体を説得するには相当な努力を要するものと思われ、あくまでも努力目標、ということは撤去の可能性は限りなく遠ざかったのではなかろうか。

朴槿恵大統領は今年が日韓国交正常化50周年となることから、日韓間にわだかまる、特に「慰安婦問題」解決には覚悟があったはずで、来年の地方選挙への弾みに、つまり「成果」を得たかったとの思惑が見え隠れする。

1965年にパク・チョンヒ大統領と締結した「日韓基本条約」はその後の大統領が替わる度にこの条約の解釈を巡るすれ違いが蒸し返される、このような事態に辟易し、「謝罪疲れ」も見られた日本国内世論にも押された結果がこの会談であったかもしれない。

9月の中国で開催された「戦勝70周年記念」へ招待された朴大統領の出欠の表明はぎりぎりまでなかったことは韓国の置かれた東アジアでの立ち位置を如実に語っていたものだろう。その後中国経済の停滞、ウォン高に伴う輸出不振、財閥企業の凋落、TPPへの立ち遅れなどなど、韓国側には一挙に負の局面に襲われた感があり、特に日本との関係がこれ以上ぎくしゃくすることの影響が経済的危機感を強く感じていたことだろう。日本側には多くを譲歩する環境にはなく、今回の妥結案には韓国側もその「誠意」を受け取ったことの証であったと思われた。





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