Aminのつれづれなる日記

来し方を振り返りながら日々思うがままに綴る。国内外の旅行、時事問題なども含めて独善的感想も差し挟んでみた。

2015年11月

日本のメディアが日本政府関係者の話として、「会談時、安倍首相が朴槿恵(パク・クネ)大統領に対し、慰安婦問題の早期妥結の条件として慰安婦像の撤去を直接求めた」と伝えており、複数の韓国メディアがこれを大きく報じていた。
11月19日、安倍晋三首相が2日に行われた日韓首脳会談で慰安婦像の撤去を要求したとの日本メディアの報道について、韓国政府が「事実と異なる」と明らかにした。韓国・聯合ニュースなどが伝えた。
韓国外交部の趙俊赫(チョ・ジュンヒョク)報道官は定例記者会見で、「両国首脳間の協議内容の詳細を明かすことは控える」としながらも、「安倍首相が少女像(慰安婦像)の撤去を要求したというのは事実と異なる」と述べた。趙氏はまた、「わが政府としては、日本でこうした事実と異なり歪曲(わいきょく)された報道が相次いでいることを遺憾に思う」と付け加えた
。←Recordchina配信記事引用
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盗難された対馬の観音寺の仏像←Yahoo画像引用

すでにひと月ほど前に三年もの期間をおいて、両首脳が初めて正式に会談したこと自体が異常なことであるが、事前の想定どおり、韓国側がようやく国民向けに弁明、表面化したのがこの記事であろう。
1965年の「日韓基本条約」締結時、現朴槿恵大統領の凶弾に倒れた父「朴正煕」元大統領でもことごとく条約内容が解釈の違いとはいえ、覆されたことが今日の(といっても1992頃からであるが)「従軍慰安婦問題」に繋がっているのだ。枚挙にいとまないほどのこのような外交上の約束事が次々と反故同然の状態に陥ることからすると、今後想定されるであろう、「慰安婦」「教科書」「竹島」「戦時徴用工賠償」「スワップ協定」「TPP」などなどに振り回されることは火を見るより明らかではなかろうか。

民主主義国家の舵取りは「大統領、総理、首相」が国民の選挙による委託を受けて担うという重要かつ厳然たる使命を受けているはずで、問題が発生する度に、舵が右に左に振られるとなると、国家運営自体が非常に危うく、外交でも、まともな交渉などできるわけはない。「朝令暮改」的な政府を相手にするのには辟易であろう。韓国においては、三権分立の中で「司法」の分野も法の支配とは縁遠いような判決が連発されている。例えば対馬から窃盗団により持ち去られた「仏像」が未だに返還されていないことの理由が裁判所の出した判決が「返還するに値せず」というのだから、開いた口が塞がらない。

本来なら盗難文化財と判明すれば文化財不法輸出入等禁止条約に基づいて直ちに日本に仏像が返還されるのだが、忠清南道瑞山市にある曹渓宗浮石寺(プソクサ)が、「観音寺の銅造観世音菩薩坐像は、元々倭寇に略奪された仏像である」と主張して返還しないよう求め、韓国の主要メディアも、元は日本による略奪だったので返還する必要はないとの論調で報じた。←Wikipedia参照

対馬の観音寺側の言い分は「当該仏像は李氏朝鮮統治時代にその保護を目的に朝鮮側から持ち込まれて現在まで丁重に保護管理されていたものであり、むしろ、感謝されるべき」と主張しているのだ。
文化財はグローバルな視点で保護されるべきであり、時の政府が混乱するとなると、シリアのパルミラ遺跡がISにより破壊されたがごとく、非常に脆いものである。
同様に、古代エジプトで制作されたといわれる「オベリスク」は西ヨーロッパに持ち込まれ、各国の広場などに再建されていることは、エジプト政府より返還要求もあるようだが、何より政権の安定を問われており、その経緯を詳らかにすることなどは困難作業となっているようだ。
もっと俯瞰すると、オーストラリア、南北アメリカ、ニュージーランドなど誰にも属することなく、原住民だけが平穏に暮らしていたはずで、そこへ、大航海時代に乗り込んだ西欧列強によりことごとく奪取されたものである。原状復帰なんてできるわけはない。韓国の司法制度が自国民衆に迎合し続けることはその国の不安定さを暴露したこと以外の何ものでもなさそうだ。







平成27年7月20日午後3時過ぎ島原外港から熊本新港へ「フェリーあそ」に乗船した。
当日朝は諫早市のビジネスホテルに宿泊、午前八時に先ずは、あの有名な「諫早湾干拓事業潮止堤防」へ直行した。なんと10km以上の延長、ちょうど中間地点に展望駐車場があるので、そこで休憩後、踵を返した。島原方面へ向かう。雲仙普賢岳はこの日は雲隠れしており、火砕流の流れたほんの下流地域、それも20年を経てほぼ復興した様子が雨雲の垂れる中に現れた。「島原大変、肥後迷惑」と言われた江戸中期の雲仙の大火砕流が有明海に流れ込み、対岸の肥後(熊本)側に津波が押し寄せ、大きな被害を出したことを伝説的に言い表したものである。
海の日の休日、船内は夏休みの子供連れなど結構賑わっていた。ここでも、華人らしきカップルがスマホ片手に九州観光をしているのが目に入った。
有明海は水深も浅く、平時は非常に穏やかな海域である。当日も天候は下り気味ではあったが、船が波で揺れることもなく、船上をウロウロしている内に1時間の船旅はアッという間に終了、熊本新港の防波堤が見えてきた。この航路は二隻の同型フェリー「あそ」「くまもと」で運用されているようだ。有明海中央付近で対抗する「くまもと」丸(号)を左側1kmぐらいを西走するのを傍観できた。
新港には海上自衛隊の輸送艦二隻の展示もあり、埠頭付近は催し物も開催され大勢の家族連れでごった返していた。下船後はナビを駆使して、国道55号線経由で日没前までに阿蘇へ着くつもりで一目散とした。
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熊本県の観光大使「くまもん」が同フェリーに乗船してくれたと社員ブログに掲載されていた。




九商フェリー「島原〜熊本航路」は、雲仙普賢岳が見下ろす歴史豊かな島原市と、熊本城や水前寺公園といった観光名所として名高い熊本市を約60分で結びます。←九商フェリー㈱HPより
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いよいよ乗船開始
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後部デッキから見える島原外港のフェリーターミナル
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後部デッキから観る島原外港とバックに聳える雲仙の峰々
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「フェリーあそ」は島原外港を後にし、有明海へ入る
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熊本港は熊本市内より10kmほどの郊外に築造された新港である
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およそ一時間の航海を経て熊本新港で下船する

幼稚園時(1955年ころ)は弁当箱を持参していたはずで、冬季には教室の片隅にあった暖炉の周りにその弁当を置いて冷たいご飯をお昼の食事時間に暖かく食べることができるようにしてあったのを思い出す。記憶は相当あいまいではあるが、主食のごはんだけ弁当箱に詰めていたのか、オカズも入れてたのかが不明である。戦後10年ほど、ほぼ食糧難は解消していたはずではあったが、おぼろながらも、その給食が困難な園児がいたことは確かである。
小学校に入ると、一年生では入学後しばらく、夏休みまでは給食なし、午前中で帰宅する習熟期間があったように思う。上級生たちがかいがいしく手分けして、配膳する様子を観るにつけ、お兄さんお姉さん達がうらやましく感じられた。そして、待望の給食が・・・・。当時目新しかったのは、脱脂粉乳加工されたミルクという真っ白く暖かい飲み物が必ず大きめの杓子一杯分配膳されたことだ。脱脂されているので、暖かいとはいえ、表面に幕が張るようなものではなく、今では市販されている、加工牛乳であったと思われる。乳脂肪分を抜いたスキムミルクであった。このミルクの支給元は国連ユニセフの支援の一環であったことは後に知った。
小学校6年間を通じてこのお昼の給食の時間は実に待ち遠しく、楽しい時間であったのは同世代の仲間では誰もが感じていた共通の思いであろう。児童であれば公平平等に配膳される「学校給食制度」は教育面でも多くの効果を発揮したと思うし、果たしたはずである。
人気のメニュートップスリーは「南蛮風クジラ肉」「揚げパン」「カレーライス」だったのは間違いない。いくら人気があっても原則お代わりはない。ただし、ミルクは少しだけ余るのだが、いつも二杯目をお代わりする者は大体決まっていたようだった。
戦後10年、朝鮮戦争も特需も一段落し、食糧難からしだいに開放され、欠食児童も失せてしまうような時代、日本はその後東京オリンピックへ向け、高度成長まっしぐらと世相は大きく変化する時代に突入していったのだ。 
給食制度が一般化し、高度経済成長を経て日本が名実ともに先進国の仲間入りをすると、農家の経済状態も向上し、今日では欠食児童という言葉は死語になりつつある。ただし、以前に比して少数とは言え、貧困や親の育児放棄などの事情から家庭で満足な食事が摂れず、長期休暇の期間中は飢えの危険に晒されるような児童も現在もなお存在する。また、ヤマギシ会の児童が朝食を与えられていないということから同会は批判されている。←Wikipedia参照

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上二枚の給食風景、思い出される風景である。Yahoo画像を引用した。
「Aminのつれづれなる日記」のブログは本日投稿分で丸一年をなった。振り返れば一年なんて早いものとつくづく感じさせられた、特別に記憶に残る一年であったように思う。

 

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インツーリストの案内嬢、当時の先端のヘアスタイルが面白い。
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トビリシ市内の公園にて、地元の子供たちと。

僕は未明のタシケント空港のアエロフロート機に搭乗しようとしていた。当然陽は東より揚る。機は予定より少しだけ遅れてテイクオフした。機材はツポレフ154型機、アメリカボーイング社製の727と瓜二つと言われていたが、気になることではなかった。秀逸なソ連のパイロットは定評があるから。民生には驚くほどの遅れが見られるソ連ではあったが、軍需から派生した航空機の性能は一流であったと思う。
巡航高度に達したT154はその機首を西に向けていた。機窓後方から低い太陽が長い尾を引いて機内に差し込んでくるのがはっきりと分かった。はるか下方の平原は乾いた黄土色が延々と続いていた。広い国土を東から西へ、いつまでも太陽の高度は変らない。離陸から着陸まで三時間足らず、二千km余りだ。日の出の太陽はまるで機を追いかけてくるような感覚。ジェット機の速度が地球の自転と余り変わらないからだと気付いた。グルジア(ロシアから独立後にはジョージアと呼称を変えた)の首都、トビリシの空港に降り立っても日射しは低いままであった。
インツーリストの職員がたった自分一人のために空港出口で待ち構えていた。彼女はただ、職務を忠実に遂行していたにすぎないのだが、如何にも効率の悪い仕事ではあったと思う。タクシーは初めてづくしのトビリシの古風な町並みを通り過ぎ、先ずはインツーリスト指定のホテル前に到着し、午後の観光のためにロビーでの待ち合わせ時間を決めてから、旅装を解いて一息ついた。午後から、予め約束されていたいくつかの観光地を巡ることになった。事前の調べ事は何もしてないので、ただ、珍しく、案内されるままに夕方までを運転者と彼女と三人で過ごした。ホテルでの食事はミールクーポンが手渡されていたので、食堂に降りて、ウェイターにそれを提示すると、割と粗末な夕食が配膳されてきた。酸っぱいロシアの黒パン、スープ、サラダ、メインの肉料理が全てだ。記憶では、他の外国人たちと一緒に時間を限られていたようで、民族音楽を奏でる楽団がいたと思う。余り印象に残ってないところからすると、やる気のない退屈なものだったに違いない。
翌日は幸いにも自由時間があり、ホテル周辺をうろついた。お決まりの観光コースは正直つまらない。先ずもってブロークンな英語が一番の障害、意思疎通ができないから、ただ、聞くだけだ。欧米からの観光客は色々と質問もしていたが、所在のない、時間を過ごすばかりだった。
グルジアの首都「トビリシ」はその後多難な四十年を経ることになった。ペレストロイカ時代のシュワルナゼ外相はここグルジアの出身であるとのことだ。
ソ連が崩壊した後は一応の独立を果たしたものの、民族紛争が勃発、南オセチア、アブハジアは現在はロシアが実効支配をする地域となっている。
街の公園では子供たちが無邪気にボール遊びに興じていたが、彼らがその後どのような苦難を迎えたのかは知る由もなかった。ただ、一時の平和を楽しんでいたのだろうか。
彼らの中にベンチに腰かけた初老の男性とわずかな会話をする機会があったが、シベリア抑留日本人の一団がこのグルジアまで送られていたことを話されて、ソ連の捕虜扱いの残酷さを思い知らされた記憶がある。大相撲の今は引退した力士の「黒海関」はアブハジアの出身、親日家となった彼は日本との友好に尽くされているようだ。非常な日本びいきで現役時代、もっと応援すればよかったと後悔している。現役ではトビリシ出身の力士として陽気な「ガガ丸」がいる。

ロシア国境付近の点線で囲まれた部分は中央が南オセチア、黒海側がアブハジアだ。



平成26年5月10日

北海道を目指す途中、盛岡より東北自動車道に一般国道より入ったのは午後8時前だった。そこで最初のSAで遅めの夕食をとることにした。西宮で合流した知人Y氏の運転でずいぶんと楽な旅行となったし、話し相手のあることは旅のよろこびを倍増させてくれるものだ。Y氏はかれこれ45年ものお付き合いで、振り返ればもう半世紀近くにもなるんだとしみじみ。
さて、SAでの食事に一時間ほど費やし、やおら本線に合流して、五分ぐらいだっただろうか、ゆるいカーブで二台の先行する大型トラックを追い越し、八幡平ICを通過して直後Y氏が奇妙な発声、自分は心底、彼の脳天が破裂でもしたのかと思った。逆走車が迫り通過する瞬間は残念ながら自分の眼で確認してはなかったから、なお更だ。通過直後の音声でも分かると思うが、一瞬車内は凍りついた。何もかもが紙一重の出来事であり、我らの強運を疑うことができなかったのだ。「たら」とか「れば」と想像すると背筋も凍る出来事であった。
ドライブレコーダーは精細モードであれば4GBのメモリーカード(MSD)でおよそ30分の録画ができるが、それ以上は上書きされるので、この瞬間を残すためにこの装置は直後OFFにして、後で録画出来てることを確認した。件の逆走運転車のその後だが、ラジオニュースで時報のたび確認したが、重大事故につながった様子はなかった。
全国では高速道路に限らず、高齢者障害者、健常者でも逆走するケースが頻発しているようで、それが原因で事故に合うということは運転する場合には覚悟すべしということだろうか。
ドライブレコーダーの効用は意外と多岐に有ることが分かる。事故原因の証拠、駐車場でのトラブル解消、残したい風景を映像で残すなどなど、コストパフォーマンスは最高だと思う。因みに自分の車に取り付けたものはネットで購入、一万円を少し切ったぐらいで配達された。取り付けはほんの10分ほど。お試しあれ。

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