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 韓国軍慰安婦

 「我々の中の慰安婦」の中に、日本軍慰安婦をそのまま複製したものがある。韓国戦争期の韓国軍慰安婦がそれだ。1951年のあるときと推測されるが、韓国軍は将兵に性的慰安を提供する特殊慰安隊を設立した。1956年に陸軍本部が編纂した「6・25事変公報戦史(人事篇)」によると、特殊鵜安隊は、将兵たちの士気を高揚し、性的欲求を長期間解消できないことで生じる副作用を予防する目的で設立された。ソウルに三個小隊があり、江陵、春川、原州、束草にそれぞれ一個中隊があった。最前線の直ぐ後方の地域だった。特殊慰安隊の女性たちは、一つの地域に留まって行き来する将兵たちを受け入れることもあるが、指示により、あるいは部隊の要請により、各部隊に出動して慰安を提供することもあった。江陵の場合、一つの中隊は八つの小隊で構成され、各小隊に配属された慰安婦は平均20人だった。その数値に基づくと、特殊慰安隊に所属した慰安婦の総数は700人程度と推算される。
 「6・25事変後方戦史(人事篇)」は、1952年の一年前に慰安隊が挙げた慰安実績を月別統計で提供している。ソウルの第一、二、三小隊と、江陵の第一小隊だけの実績だ。これら四個小隊に属する慰安婦は89人だった。彼女たちが慰安した将兵の総数は20万4560人だ。月平均では1万7047人、一日平均では560人、慰安婦一人当たりの一日平均は6.3人だ。このように、韓国軍慰安婦に課せられた性交労働の強度は、一日平均6.3回だった。
 複数の回顧録からも、韓国軍慰安婦に関するいくつかの情報を得ることができる。車圭憲という将校は、師団が送った慰安隊は、到着すると24人用の野戦天幕に収容され、簡易の仕切りが設置されたあと兵士たちと接した、と回顧している。兵士たちは、天幕の前で列を作って順番を待ち、女性にチケットを渡してから慰安を受けた。金喜午という将校は、連隊から隷下の中隊に8時間ずつ働く6人の慰安婦を第五種補給品として送った、女性たちは連隊の幹部らが、士気高揚のため、大金をはたいてソウルから調達した、と書き残している。このことから、韓国軍の幹部たちが慰安婦を、戦争遂行のための補給品として認識していたことが分かる。また、韓国軍が正式に編成した特殊慰安隊以外にも、部隊長の裁量によってソウルなどの私娼街で慰安婦を募集し、臨時的に運営した慰安隊もあったことが分かる。
 韓国軍慰安婦について最も詳しい回顧録を残した人は、蔡命新将軍だ。黄海道が故郷の信心深いキリスト教信者で、解放後に共産主義体制の北から南に逃げて軍人になった人だ。韓国戦争時は、敵の占領地域に浸透した南のゲリラ部隊を率いた勇将だった。後の朴正煕政権時代には、ベトナムに派遣された韓国軍の司令官も務めた。この人が「死線を越え、また越えて」という回顧録を執筆した。その第五連隊の連隊長時代の話しの中に、要約すると次のような慰安婦に関する回顧が出て来る。
 
 第五連隊が後方に退いて来た。私は、武功を挙げて勲章を貰った将兵たちに、チケットを優先的に配分した。チケットを貰った19歳の朴パンド軍曹は童貞で、慰安部隊の天幕の中に入ることを頑なに拒絶したが、分隊員らにむりやり押し入れられた。女性にイチモツを触れられ、童貞であることをからかわれたため、朴バンドは逃げ出した。翌日、彼は再挑戦し、とうとう成功した。朴バンドは、チケットをもう一枚ほしい、と言って来た。我が部隊は再び戦線に投入され、朴バンドは惜しくも戦死した。

 この滑稽で悲しい事件のことで、蔡命新連隊長を責めないでほしい。彼は信心深いキリスト教徒だったが、旗下の将兵たちに慰安婦を提供することには、何ら罪悪感を抱いてなかった。それは戦争の文化だった。その戦線では、皆が歴史の犠牲者だった。天幕内の慰安婦も悲しい人生だが、19歳で戦死した朴バンド軍曹の人生も、悲しいことでは同様だ。朴バンド軍曹が乱暴な軍人で、かよわい女性の性を搾取した、と言えるだろうか?私は言えないと思う。私が軍慰安婦の存在を正当化している、と非難しないでほしい。私は、人間の歴史がはらむ矛盾と複雑性、現在も存在するその同時代性を指摘しているだけだ。
 1950年代の韓国人たちも、その点を鋭く認識していた。韓国軍は、特殊慰安隊を接率しながらも、「表面化した理由だけを以て(売春を禁止した)国家施策に逆行する矛盾した活動であると断案すれば別問題ではあるが」、戦争の遂行上、不可避なことである、と弁明した。そして、戦争が終わると「設置の目的が解消するに至り、公娼廃止の潮流に応じて、1954年3月特殊慰安隊を一斉に閉鎖した」と言明した。

* 編者李栄薫氏はこの項辺りから次第に「慰安婦」の核心に迫ることになる。併合時代以前から連綿と続く、仕事職業としての慰安婦制度は韓国戦争(朝鮮戦争)からベトナム戦争にまで大きな存在であったし、韓国人の大多数がそれを認識したはずである。1965年の日韓請求権協定締結時にもこの慰安婦制度には触れられてない、それほど大きな役割を果たしたはずの慰安婦制度が敢えて葬り去られたのはなぜだろうか?そして、それが突如として1990年代になり、白日の下に晒されることになったのだろうか、李教授の続きがそれを解明してくれる。